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コーヒーを数口飲んだ後、波留は顔を上げる。そもそも、訊きたい事があった。 「――それにしても、何故俺の事を?」 知っているのかとか知りたがるのかとか、それは複数の意味が内包された問いだった。これに対して久島の反応は簡潔極まりないものとなる。 「何か不満か?」 相変わらず波留を見下ろす格好のままで、久島は表情を変える事無く静かな声でそう訊き返してきた。 「いえ、そうじゃないですが」 それに対して波留は軽く左手を横に振った。言葉でも否定する。それは誤解されたと特に慌てているような仕草でもない。最早惰性に近いような態度だった。 波留は久島がそう言う人間であると理解しつつあったし、こう応対しても怒らないとも悟りつつあった。まともに言葉を交わしたのは今日この時が初めてであったが、既にそうなりつつある。 果たして久島は特に気分を害した様子も見せない。顎に右手を当て、淡々と言う。 「君は自分が思っているより、海洋学の研究者には有名だと思うが」 「そうなんですか?」 その発言に波留はきょとんとした顔になる。まじまじと久島の顔を見やった。心底意外そうな声を出していた。 「つくづく他人事なんだな」 そんな波留の態度に、久島は僅かに苦笑を漏らしていた。 「――3年前」 「え?」 そして久島の口から短い単語のみが発せられた。それに波留は怪訝そうな声を上げる。そんな波留を久島は見下ろし、視線を合わせた。黒髪の男を見ながら台詞を続ける。 「3年前、クアラルンプールの海洋会議で君は発表していただろう。あれが君の博士論文だったか」 「ああ――」 波留は両手を軽く打ち合わせていた。その年代と場所と、ふたつの単語で彼は記憶を呼び覚ましてゆく。刺激的で懐かしい記憶だった。 「あの発表には、播磨から離れても相変わらず手堅い研究をしていると思ったものだ」 久島は波留を眺めやりながらも淡々と言う。手を下ろして胸の前で腕を組んだ。 波留は思い出されたその当日の記憶に、懐かしさや照れを感じていた。すっかり相好を崩し、気持ちのいい印象を与える笑顔を浮かべる。 「あの頃にはもう企業相手の研究に関わっていたので、なかなか個人的に発表出来るものがなかったんですよね。場を与えて貰えただけで感謝しています」 「あの時は私も発表を持ち込んだ」 「ええ、良く覚えていますよ」 言いながら波留は口許に手をやる。朗らかに笑った。 それは嘘ではなかった。初日の早朝と言うあまり出席者が見込めない時間帯とは言え、立場上は一介の院生に過ぎないのに大規模な会議にて発表の機会を与えられた。それが当時の互いの立場だったために、波留も久島に注目してしまっていたものだった。 「それ以降は互いに企業に所属して多忙になり、学会発表も出来ない立場になっていたか」 「そうなりますね」 久島の言葉に波留は頷いていた。企業の研究員となってしまえば、その研究内容はあくまでも企業所有の財産となる。いくら自分で手掛けたとは言え、自由には出来ない。そうなると自然と学会からは身を引いてゆくものだった。 そして波留は楽しそうに笑う。軽く手を胸の前で振る仕草をした。何となく軽口を利いてもいいような心境になる。 「でも、俺の研究に興味があったなら、その後で話し掛けてくれても良かったんですよ。日本語恋しかったし」 「既に何人かの研究者が君の元に居たしな。その時には、配布された論文を読んで満足した」 「――こうやって話し掛けてくるって事は、今は違うんですか?」 それは波留にとっては、少し意地悪な質問のつもりだった。それに対して久島は特に他意を嗅ぎ取る事はない。或いは嗅ぎ取ったとしてもそれをおくびにも出さない。平然と言い放った。 「君の研究や才能には常々興味があった。しかし君個人には特に興味はないつもりだった」 どうやら他人が気分を害するかもしれないような事も気にせずに発言する人間らしい。波留はそう思ったが、そんな久島の態度にももう慣れてきていた。そこに久島の台詞は続く。 「――が、折角同僚になるのならば、こんな風に会話を交わすのも悪くはないと思っている」 ――単に会話するだけだってのに、そう言う理由付けを口にしてしまうのか。つくづく理屈っぽい人だな。波留はそう、半ば呆れていた。 それにしても。 ともかく、俺個人に興味があるから、この場に「邪魔」をしに来たと、解釈すればいいのだろうか? そんな思いに耽りながら、波留はコーヒーを啜っていた。 |