「――そう言う訳で、お互い奇特にも東京方面には進学しなかった訳だ」
「…ええ」
 その話の向きに、波留は軽く俯いていた。方向を違えたはずの話が、元の位置に戻ってくる事を知ったからだ。
 久島は腕を解いた。視線を隣に向けると、コーヒーメイカーに落ち続けていた水滴が止まっていた。抽出が完全に終了したらしい。棚の方に身体を向き直らせつつ、言う。
「お陰であの騒動には巻き込まれずに済んだ。お互い幸運だったな」
 ――そう言ってしまえばおしまいだった。波留はそう思った。そうは思えないから、今日の件で少しばかり考える事があるのだ。
 波留の心中を知ってか知らずか、久島は彼の方を向く事はない。ガラス製のビーカーをコーヒーメイカーから外して持ち上げる。その隣に置いていた白いマグカップに、中身の液体を注いで行った。
 コーヒーが発する芳醇な香りが波留の方にも届いてくる。それと共に久島の淡々とした台詞が、白衣の背中の向こうから伝わってきた。
「我々は今ここに招聘された人間の中では若い方だ。そしてここには色々な人間が集まっている。東京出身は何も君ばかりではない。私も住んだ事こそないが、馴染みではあったからな」
「そうですか」
 どう答えていいのか判らないので、波留は相槌を打つに任せる。健在だったかつてはこの国の首都であった以上、距離的な問題に都合がつけられる人間ならば、東京には何らかの用件で足を運ぶ事もあっただろう。
 久島が振り返った。その右手にはマグカップを引っ掛けている。自然な足取りを進め、波留の方へと歩み寄ってきた。
「それこそ、あの地震に巻き込まれて逃げてきた人間もいるし、あの時の現地に入って調査を行った学者もいる。現場を経験した人間でなくとも、あの当時を生きた日本人なら誰しも何らかの影響を受けているだろう」
 歩いて来る最中も、久島はそんな事を淡々と語っていた。波留はその姿を視界に入れて、彼の存在も言葉も受け止めている。
 そうこうしているうちに、久島が波留の目の前に立っていた。机に着いて椅子に腰掛けている波留の顔の前に、白いマグカップが差し出される。
 波留はそのマグカップとそれを差し出してきた男の顔とを交互に見比べた。その合間に、マグカップから湧き上がっている白い湯気が掛かっている。親切心からコーヒーを淹れてくれたのだろうと思っていたが、その表情に笑みは見られない。
 だから波留は曖昧に笑いつつ、両手を伸ばした。マグカップに触れ、それを受け取る。波留が軽く会釈して礼の言葉を述べると、久島の指がカップの蔓から離れてゆく。
 波留はマグカップを持ち替えつつも、顔の前に来ているそれから漂う良い香りを嗅いでいた。若干涼しかった空気に、熱いコーヒーの湯気が纏わりついてくる。マグカップの蔓に自分の指を通し、縁に口をつけた。味わうように一口だけ含む。
 その時、久島が淡々とした口調で告げていた。
「――まあ何を言いたいかと言うと、君だけが特別と言う訳じゃない」
 その台詞に波留の動きが一瞬止まる。それから彼はマグカップから口を離した。顔の前からマグカップを下げる。俯き加減に、その黒い水面を見やっていた。
 どうやら自分が今日の一件で色々と考えている事は、彼に見抜かれていたらしい。波留はそう思った。
 しかしこの言い方は、どう言う事だろう。私情を挟んで仕事をおろそかにするなと、穏やかに叱責されていると見るべきなのだろうか。
 言葉から考えると、おそらくそうなのだろうと波留は思う。実際にそのせいでレポートの作成が遅れているのだから。明日朝の会議までに間に合わせればいいとは言え、本来なら今日の定時までには終わっているようなタイムテーブルになっていた。現状では実害は出ていないとは言え、これは厳然たる事実だった。そもそも国家機関に順ずる組織において不用意に残業している時点で、実害が出ているとも言えるのだが。
 が、しかし、波留の心の何処かでは、これは彼なりの慰めなのだろうかと、そんな考えも沸き上がっていた。今会話を交わしているこの相手は、自分とは少しペースが違う人間だった。だから、そう言う理論が成り立つのかもしれない――そんな事を考える。
 ――とは言え、あの時、東京のほぼ全域が海中に没したのだ。「東京」と一口で言っても、その対象は幅広い。他の機関や民間企業も別件で、様々な地点にてこのような調査に当たっているはずだった。
 だと言うのに、今回潜った調査海域で、故郷の街にピンポイントに遭遇した自分は、大概なのではないだろうか。本当に痛く懐かしい光景を海中で見てしまったのだから、少しは感傷に浸ってもいいのではないだろうか。独立行政法人の人間には、それすら許されないのだろうか。
 波留はそんな事を思っていた。しかしそれを口に出す事はしない。それを言っても、目の前の人間には理解して貰えるのか判らなかったからだった。
 空気の流れを受け止めているのか、僅かに揺れる黒い水面を波留は見やっていた。ふと視線を上げると、久島は相変わらず目の前に立っている。しかし波留は相手の手の中にマグカップがない事に気付く。そう言えば――と、視線を棚の上の方に投げ掛けるが、そこに別のマグカップらしきものは見当たらない。そもそもビーカー内にコーヒーも残っていなかった。
 波留は顔を上げた。久島を見て、湧き上がった疑問を簡潔に尋ねる。
「――あなたは飲まないんですか?」
 その問いに久島は少し表情を変えた。若干鼻白んだようになる。
「コーヒーはあまり好きではなくてな」
「研究者なのに、珍しい」
 それは波留にとっては素直な感想だった。自分達の環境には決まってコーヒーメイカーが常備されているものだった。それに手をつけない人間も、たまには居るのだろうかと彼は思っていた。
 そんな波留の台詞に、久島はあからさまに眉を寄せた。口許を歪める。
「ああそうだ。研究者と言えば、全員この無粋な泥水を飲むと決まっているように思われるのが、常々心外だ」
 ――今、俺はその無粋な泥水とやらを出されて飲んでいるんだが。波留は久島の台詞を受け止めつつ、反射的にそんな反応を心中に湧き上がらせていた。
 どうやら久島はコーヒーと言う存在が余程嫌いらしい。台詞からもそれは判るし、表情からもその嫌悪感は全く隠し切れて居ない。好悪の感情は人間に当たり前のものとして備わっているだろうが、この彼にも存在したらしい。波留は久島を見やり、そう考えていた。
 だからと言って、波留が口にしているコーヒーの味は悪くなかった。コーヒーメイカーに豆をセットして水を注ぐだけと言う簡単な手法で淹れるようなものだったが、それらの分量や抽出した液体を飲むタイミングなど、そこには人によって作業の落差も発生する事がある。
 しかし久島は、それらをそつなくこなしているようで、味を落とすような事はしていなかった。嫌いであってもその作業は確実にやろうとする人間らしい。
 そんな事を考えながら、波留は再びマグカップに口をつける。まだ液体は熱いままであり、口の中に広がる味は香ばしい。そんな風に彼は素直に無粋な泥水を味わっていた。
 
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