コーヒーメイカーの内部に黒い液体が溜まってゆく。元々注いだミネラルウォーターの量が少なかったのか、ガラス製のビーカーの中程までも至らない所で、注がれるのは水滴へと変わっていた。 「――君は、播磨に居ただろ?」 そこで、不意に久島から投げ掛けられる話が変わった。波留はそう思い、抱いていた考えが中断される。 「…ええ。しかし何故」 それを知っているのかとは、波留の口からは続かなかった。ここまで戸惑わされていたからだ。 確かに久島は今まで波留の事実を言い当ててきている。それらは隠している事ではなく、公開プロファイルには掲載されているような事だった。しかし、上司でもなければ人事課の人間でもあるまいに、普通そこまで目を通されるものだろうか。波留にはそこが疑問だった。 彼の疑問をよそに、久島は黒い水滴が落ちていく様子を眺めていた。波留の方を見ないままに続ける。 「私もそこに居たからな。年次は違うが同じ大学で、似たような専攻だったはずだ」 しかし播磨は学園都市だけあって、そこに滞在している学生の数は非常に多い。実際に「都市」を形成するだけの人間がそこに居るはずだった。その生活において何の関わりもなかった人間など、特定できる訳もない。だから当時から知っていた訳ではなく、あくまでも現在のプロファイルを見てからの判断だろう。久島の話を訊きながらも、波留はそんな常識的な結論に至っている。 そんな中、久島は振り向いた。机に着いたままの波留を見据える。 「何故播磨だったんだ?あそこに入学出来る能力があるならば、他にも選択肢は色々あっただろう」 それはもっともな質問であり突っ込んだ質問でもあったが、何故だか波留は素直に応える気分になっていた。 プロファイルに載っていないだろう事は流石に知られていないのかと言う妙な安堵もあったし、何故そこまで知りたがるのかと言う疑問もあった。そんな色々な感情がない交ぜになった挙句に素直な気分になったのかもしれない。 波留は気を取り直すように、パソコンの画面に視線を落とした。自分が書き綴っている文章を眺めやってから、顔を上げる。若干苦笑めいた微笑を浮かべ、久島の方を見て語り始める。 「…あちらさんから誘いがあったんですよ。高校の成績を見たらしくて、このレベルならば1年スキップして入学出来ると。学費も全て払ってくれて、寮に入れば生活費の保証もすると言ってきたので、それに応じました」 波留の説明を訊きながら、久島は腕を組んだ。コーヒーメイカー一式を隣にしつつ、棚に寄り掛かる。そして納得したように頷いた。 「成程な。あの時代、播磨は人材を集めるのに躍起になっていたからな」 無限に発展してゆくと思われていた経済力を背景に、新時代の都市として建設された人工島が新浜県新浜市である。その同時期に、新浜の近辺に建設された研究学園都市が、播磨だった。 その経済力に陰りが見え始めた時代に入っても、税制面での優遇を目当てに企業が新浜とその近郊に本社或いは大きな支社を設置してゆく、そんな緩やかな時代の流れが前提として存在していた。 そんな中、播磨に属する大学達も、他の地域の大学から一定水準より高い教授や学生を引き抜いて行っていた。それを支えるだけのある程度の財力は保証され、施設も最先端のものを揃えていた。それが当時の国策だった。 「丁度、俺がやりたい専門を学べたのも大きいですよ」 「君は最初から海洋学をやろうとしていたのか」 「ええ」 思い出した事があったのか、波留はそこで少し微笑む。懐かしむような表情をしていた。そこに久島の言葉が飛んでくる。 「私はそうではなかった」 「――え?そうなんですか?」 波留の表情が意外そうなものに変化する。現状の久島は若手の海洋学者の中では有望株であるはずだった。それは発表された研究からも推し量る事が出来ていた。 それなのに、当初は目指す場所が違ったと言う事なのだろうか?波留は現状と比較して、奇妙に思う。 そんな彼の表情を久島は受け止めていた。棚に寄り掛かったまま、伏し目がちに淡々と語る。 「播磨では後から専攻を自在に変更できたからな。とりあえず籍だけは置いておこうと、滑り込んでみただけだ」 播磨に所属する大学群の殆どは新興の大学だけあって、国立だと言うのにそのカリキュラムにはかなりの自由があった。そこも学生を呼び込む要素のひとつとして設計されており、実際に設立当時からずっと人気は上がっていっていた。 しかしそれだけに、基礎となる学力は高いレベルが要求されていた。気楽に滑り込む事が出来るような場所でもない。それは波留にも言える事ではあった。 「身の振り方は後々考えるつもりで入学したが、これからは日本だけではなく世界的にも人工島建設が一大事業になりそうだったからな。それに関わる専攻をしておけば後々潰しが利くと思ったんだ。だから、その際の海洋調査に起用されるであろう海洋学を選んだ」 そこまで語った時点で、久島はふっと笑う。顔を上げ、波留を見やった。 「私がこのザマで、失望したか?」 「…いえ。きっかけはどうあっても、今のあなたは素晴らしいと思うし」 意外な話ではあったが、それは波留にとって素直な気持ちだった。それに、打算的と言っては言葉が悪いが、言い換えれば理知的に海洋学の道に進んだのだから、ああまで冷静に研究を進める事が出来るのかもしれないと、彼の中で解釈も出来ている。それは好意的過ぎるきらいがあったかもしれない。 「今も昔も誘いがあるのだから、君の方が余程期待されているだろう」 「どうなんでしょうね」 波留は首を傾げた。どうも自分は目の前の素晴らしい研究者に余程高く評価されているらしい。その理由は何故なのか、彼には全く判らなかった。 |