それから久島は不意に席を立った。机の上にノートパソコンは接続したままだった。彼は白衣の両脇に備わっているポケットに両手を突っ込んだ格好で、壁際へと歩いてゆく。
 ――話は終わったと言う事だろうか。波留は久島の様子を見てそう思った。しかしパソコンはまだ置いたままだったので、部屋から出ていく訳ではないらしい。
 ともかくもう自分との話は決着がついたらしいと考え、彼は再びノートパソコンの蓋を上げた。スタンバイ状態になっていた画面が再び明るくなる。そこに映し出された文章を軽く眺めやり、続きを書こうとした。
 そこにまた、唐突に声が飛んでくる。
「――コーヒーは嫌いか?」
「え?」
 波留が顔を上げた先では、久島が壁際に備わっている冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出している所だった。
 その隣にある棚の上に置いてあるコーヒーメイカーは空のままで、今日の当番だった人間に綺麗に洗われた状態だった。そこに久島はフィルターとコーヒー豆をセットしてゆく。
 その光景に慌てて波留は席を立とうとする。中腰の姿勢で、まず台詞が口から突いて出た。
「俺がやりますよ」
 その声に久島は振り返る。手元ではコーヒーメイカーにミネラルウォーターを注ぎ入れつつ、波留に向かって口を開く。
「構うな。君は仕事中で、私はその邪魔をしに来ただけだ」
 久島は真面目腐った声の調子で、そんな事を言った。これは笑う所なのだろうかと波留は思う。
 ――と言うか、邪魔?ノートパソコンを持ってきたからてっきり同様に残業しに来たのだと思っていたが――と、その表現を本気で取っていいのかも、波留には判らなかった。
 どうもペースが噛み合わない。しかし、今までも色々な人間と付き合ってきているので、たまにはこう言う相手も居るだろうと彼は思った。そのうちに慣れるだろう。――「そのうち」と言える機会がずっと与えられるならばの話だが。
 涼しい空気が漂う部屋だったが、コーヒーメイカーの上部から湯気が漂ってくる。それに従うようにこぽこぽと言う音も響いていた。波留の方にも、香ばしい香りが空気に混ざって届いてくる。
 そんな音などを背景に、久島は棚を開いてカップをひとつ取り出していた。白い陶器製の無地のマグカップが彼の手にある。船舶備え付けのものらしい。彼はそれをコーヒーメイカーの隣に置いた。そんな作業をしながら、波留を振り返る事無く話を続ける。
「――しかし、ここまで滑らかに回答出来るならば、どうしてこんな時間まで作成に手間取っているんだ?」
「それは…――」
 波留はその問いに答えようとしたが、結局言葉が続かなかった。言いかけたまま立ち尽くした格好になってしまう。気分を紛らわせるように、少し息を吸って吐いた。それから、背後にまだ存在しているはずの椅子目掛けてそのまま腰を落とす。
 貸与されたパソコン同様に若干古臭い椅子が、その勢いに軋みを上げる。波留はその勢いのまま、背中を背もたれに預けた。硬い感触が背中に伝わってくる。
「…少し考える事がありまして」
 結局、波留は頭に手をやって苦笑気味に答えを導き出していた。しかしその笑みに若干の寂しさを漂わせている。
 久島はちらりと波留の方を見た。そして言う。
「――君は東京出身だったか?」
「…ええ」
 波留は短く応えていた。しかし何故それを知っているのだろうと一瞬不思議に思った。もしかしたら、同僚となるだろう相手の資料には全て目を通しているような人間なのだろうかと考える。
「しかし現在では全く違う場所に在住の身の上じゃないか。御両親が巻き込まれたとか、そう言う話か?」
「いえ」
「なら、良かったじゃないか」
「そうなんですがね…」
 波留は苦笑を深めてゆく。さざなみのように漏れる笑い声が、やがて溜息のようなものに変わって行っていた。
 
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