ここは調査船の内部である。現在では港に停泊している状態であり、殆どの乗務員はホテルへと引き揚げていた。
 現在の調査は組織自体の立ち上げにも関わっており、船に出入りする人間も多い。研究職である人間も同様だった。
 船のスペース上、それだけの人間の席を用意する事は不可能だった。そのために現在のこの船において、研究職の人間であっても決まった席は存在していない。貸与されたノートパソコンを各自持ち込んだ上で、用件がある際にその都度サーバに接続して机に着く事になっていた。
 無線接続ではないのはセキュリティの確保のためである。ハブの設置位置は悪くないために、それ程煩雑ではなかった。
 ホテル側にミーティングとしての設備は整ってはいる。しかしセキュリティ上、機密データを気軽に外部に持ち歩く訳にも行かず、結果的に船内で作業するしかない環境にある。
「――おい」
 波留の向かいの席から不意に声がした。ぶっきらぼうな声であり、波留はそれが自分を呼ぶ声なのか一瞬迷う。ちらりと視線をノートパソコンのディスプレイの向こうに投げ掛けてみるが、相手もノートパソコンを立ち上げていじっているためにそのディスプレイに顔は隠れてしまっていた。
「…何か?」
 結局波留は手を止める事無く、短く応えた。視線を自らのディスプレイに戻す。そこにあるのは日本語表記の文章と資料用写真や図版だった。キーボードを打つ音が滑らかに響くと、そこに文章が追加されてゆく。
「今、君が纏めているそのレポートを見せて欲しい」
 その台詞に、思わず波留の作業の手が止まる。――催促か。彼はそう思い、僅かに焦りの気持ちが沸いて来る。確かに昼過ぎには調査は終了したのだから、これは残業してまで作成するようなレポートでもなかったはずだ。
 しかしこれを使った会議は明日のはずだった。そのために今、残業状態になってまで作成している。期日までに作成すればいいものであり、それ以前に提出の義務はない。そもそもこんな夜に読んで一体何をすると言うのか。
「まだ途中です。明日には皆さんに配布出来ると思いますが」
 波留はやんわりと、そんな自分の状況を久島に伝えていた。しかし久島は相変わらず淡々と自分の要求を提示してくる。
「書き掛けでいい。今、君の考えを知りたい」
 その言葉に波留は首を傾げた。今度は首を伸ばして向かいを見やったが、相変わらず開いたノートパソコンのディスプレイに遮られて相手の顔は見えなかった。一体何だろうと思う。
 しかし断るような事でもなかった。文章を打ち込む手を休め、然るべき操作をする。単純な作業のために、すぐに終わった。
「――閲覧専用形式で、書き掛けのコピーをサーバ上に置きましたよ」
「ありがとう」
 波留が自らの行った作業を言葉にして告げると、特に感情も篭っていないような感謝の声が返って来た。キーボードを叩く音が室内に響き、収まる。サーバ上から該当ファイルを自分のパソコンに取り込んだらしく、静かに読んでいるらしい。
 そんな様子を波留は全く気にする事はない。自分の原本ファイルに続きを書いてゆく。
 ――今日は色々あって疲れた。早くホテルの自分に割り当てられている部屋に戻って、眠りたい。彼は確実にレポートを書きつつも、頭の何処かではそう思っていた。
「――どう、思っている?」
「え?」
 そんな中、向かいからまた唐突に言葉を投げ掛けられ、波留の作業が止まってしまう。そこに久島は静かに問いを放ってきた。
「今回観測された魚の種類が、これまでの近海での観測結果と食い違う理由は?」
 まるで設問のような問い掛けに、波留は顎に右手を当てた。少し眉を寄せ、俯き加減になる。蛍光灯の光を反射してぼんやりと輝くディスプレイを瞳に映す。
 それから彼は眠気を払うように溜息をついた。顎に手をやったまま、語り始める。
「………海底地震による地形とそれに伴う海流の変化。及びこの海域の…――栄養分の富裕化により、魚群の種類と数が変化したものと考えられます」
 少し言葉に詰まったのは、そこに様々な事情があるからだった。しかし質問している側は気にする事はない。続けて問いを投げ掛けてくる。
「生息する生命体に多大な影響を及ぼす水温には、誤差の範囲以上の変化は見られないが?」
「…この地域では所謂ヒートアイランド現象による温暖化が回避されたために、この海域に限って言うならば地球温暖化による海面上昇の影響は受けないものと…――」
 そこで波留の説明が止まった。口を軽く開いたまま、動きを止めていた。彼の瞳にはきょとんとした表情が浮かんでいる。
「どうした?」
 久島の怪訝そうな声が波留に届く。そこで波留はノートパソコンのディスプレイを軽く畳み、閉じた。半ばは政府機関からの貸与品らしく数世代前の古く厳ついパソコンのディスプレイの光が消える。
 そして向こう側の机を見やると、少し見る角度がずれたのかノートパソコンに被りつつも久島の姿が垣間見えた。彼もまた波留の方に視線だけでも投げ掛けている。
「…何だか、口述試験のようなんですが」
 波留が感じた疑問をそのまま口にすると、久島は僅かに唇を上げた。椅子をずらし、右腕を肘掛けの脇に落とす。若干リラックスしたような姿勢を取り、波留の方を見た。
「何だ。電理研起用のための最終試験かと思ったか?」
「そんな風にも捉える事が出来ますね」
「私にそんな権限はない。そもそも君がこのまま電理研に来るならば、私とは同期扱いになるだろう」
 本気なのか冗談なのか、態度からは分析出来ない。ともかく久島はそんな事を言っていた。
 そして波留にもそんな事は良く判っていた。仮に本当に最終試験があるのならば、もっと立場が上の背広組が口述試験を行ってくるはずだった。
 しかし、そもそもそんな試験は行われる訳がなかった。今回の招聘は、独立行政法人である電子産業理化学研究所――通称電理研を立ち上げるメンバーとして、政府や担当省庁によって選抜された結果なのだから。波留が自分から売り込んだ訳ではない。一般公開済みだったとは言え、彼らが勝手に今までの研究発表などを参照して書類選考を行った結果だ。
 それは判っていたが、ならばどうして久島に口述試験めいた事をされなければならないのかは判らなかった。今述べたような事は、明日になればレポートとして纏められた形式で彼を含めた研究者達に配布するつもりだったのだから。
「なら、何故こんな事を訊くんですか」
「言ったろう。君の考えを知りたいと」
「…はあ」
 久島は先程と同じ事を繰り返す。それを訊いた波留の口からは曖昧な返事が漏れていた。本当に良く判らない相手だと思った。
 
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