――脳裏には、傾いた赤い鳥居が海水に浸食されている光景が浮かんでは消える。木造家屋は既に朽ち果ててゆき、鉄筋建築物のみが残骸を残していた。そこを魚の大群が我が物顔に通り抜けてゆく。
 最早そこは人間の領域ではなくなっていた。職業柄においても自分の信条としても自然とは偉大なものであると判ってはいたが、その自分の領域だった部分を侵されるとなると辛いものがある。
 それを思い返すと、思わず手が止まる。彼は、今晩幾度目か判らなくなっている溜息をついた。
 窓もなく扉は締め切られた部屋ではあるが、そこに漂っている空気はひんやりとしている。天井に備え付けられているいくつかの蛍光灯は、ひとつしか点灯していない。部屋の中央部分にはオフィスのように机が隣接して設置されており、それを上から薄暗く白い光が照らし出していた。
 部屋の隅の棚に置かれているサーバには電源ランプが点灯している。その背面から伸びたケーブルがルータに接続されており、ルータからは更に机の中央にあるハブへとケーブルが伝っていた。ハブにはいくつか差込口があるが、1個だけ塞いで回線が延びている。
 そんな部屋で白衣を羽織った男がひとり、机のひとつに着いてノートパソコンと向かい合っていた。彼は時折頭に手をやりつつもキーボードを叩いている。個人用として机に置かれた小型の蛍光灯は点灯しており、白い光が煌々とディスプレイと彼とに被っていた。
 そんな風にして、波留真理は日中に自分で行ったダイブの結果をレポートに纏めていた。





「――何だ。まだ作業をしている奴が居たのか」
 彼は不意に、部屋の入口から声がするのを聴いた。顔を上げ、その方を向く。
 半ば開いた扉の向こうに、白衣を羽織ってノートパソコンを小脇に抱えた男がそこに立っていた。それは彼と同様のスタイルだったが、こちらの場合はもう少し生真面目な服装だった。少なくとも、ノーネクタイの上に長髪を後ろで纏めているような彼とは一線を画している。
 部屋の入口と中央の机と、そこまで遠くはない距離から発せられている視線がかち合う。入口に立つ男が僅かに笑みを浮かべているような気がして、少し怪訝に思う。
 ともかく男は室内に入ってきた。身体を滑り込ませた後で、後ろ手に扉を閉める。オートロックの扉はそれで容易く施錠されていた。
 扉がロックされる音を聴き、机に着いている先客の方は席毎振り向いた。片手を胸の前に挙げて周りの机を指し示す。
「…作業をやりたいなら、空いてる席にどうぞ」
 若干曖昧な笑みを浮かべて彼はそう言った。それらはふたりが事前に、今日のこの船上でやり取りした表情と同一だった。
 言われた方は特に何の反応を返す事もない。会釈する事もなく、部屋を見渡した。そして歩みを進める。そのまま先客の向かいの席に着き、ハブに有線ケーブルを接続してノートパソコンを立ち上げる。
 彼の事を波留は知っていたが、今まで特に会話した事はなかった。せいぜい全員の面通しの際に挨拶したとか、この場においてはそう言う関係だった。
 それが何故か、日中の船上で視線が合った際に笑い掛けられたりしていた。そうされた理由は彼自身には良く判っていないし、その後で問い質す事もしていなかった。多忙であったし特にその必要を感じなかったからだった。それから相手からも捕まえられる事もなく、この夜に至っている。
 彼が久島永一朗と言う名で、若手の研究職である事は波留も知識としては知っていた。同じ業界にいる限り発表された研究には目を通すものだが、彼が見る限り高いレベルにある海洋学者であるように思われた。そして実際にこの独立行政法人に招聘されているのだから、上やひいては政府からもそう判断されているのだろう――と、ある意味自分を棚に上げて考えている。
 
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