時計は日が替わる時間帯を指し示しつつある。波留がこのオフィスに戻ってから1時間が経過しようとしていた。
 こうなると久島は残業を早く終わらせるべきであり、波留はその邪魔をせずにさっさと帰るべきだった。そして彼らは各々それを実行しようとする。
 久島は自らの席に戻り、放置していたノートパソコンに向かい合った。キーボードに軽く触れると、モニタに光が戻る。書き掛けのレポートやその元となるデータ類が表示された。彼はそれを眺め、脳内に構築されていた理論を取り出し始めた。
 一方の波留も自らの席に戻る。右手で椅子の背もたれに掛けておいたジャケットとネクタイを無造作に掴んだ。左手では机の上の鞄の持ち手を掴む。それらを伴い、奥のロッカーへと向かうつもりだった。
 彼の様子を久島は気にしていない。机の上には紅茶入りカップを携えたまま、カップ自分の作業に専念するつもりだった。
「――あ」
 そんな中、波留が気付いたような声を出す。それに久島は顔を上げた。モニタから視線を外し、声がした方を見やる。
 波留は机の前に立ったままだった。そこで携帯をいじり、画面を覗き込んでいる。どうやら鞄の中に収めていた携帯を取り出し、着信履歴を確認した結果の声らしい。
「沙織さん、自宅に着いてるよ」
 続いた波留の台詞がそれを表していた。このオフィスに到着した後に、そのメールが着信していたのだろう。今までそれに気付かなかったのは、マナーモード設定のせいかそれとも携帯の電源自体を切っていたためと思われた。
「…彼女とアドレスも交換していたのか?」
「いい機会だったしな。彼女も新社会人でこんな大変な職場なんだから、誰か親しく話せる相手が居たら心強いと思ってね」
 朗らかな波留の返答に久島は何かを言おうとした。しかし、溜息混じりに言葉が消えていった。もう何を言っても通用しないと、彼は諦めの境地に至っていた。
「返事、出しておけよ」
「判ってるって…メールなら遅い時間でも起こす事もないだろうしな」
 波留は久島を見ずにそう答える。彼は画面を注視したまま、携帯を片手にしてボタンを操作していた。現代人らしくそれなりに携帯の扱いにも慣れているようで、素早くボタンを連打して文章をしたためてゆく。操作音はオフの設定でも、ボタンが押される音が微かに響いていた。
 久島はそんな彼の様子を眺めている。ふと、口を挟んだ。
「…ちょっと待て」
「何だよ」
 受け答えつつも波留は携帯から目を離さない。書くべき文面は脳内に出来上がっているようで、指の動きが止まる様子はなかった。
「お前…どんな返事書いてる?」
「んー、俺は電理研に戻って久島と一緒だって」
 久島からの躊躇いがちな問い掛けに、波留はあっけらかんと答えた。台詞の最後にはボタン操作の音も途切れていた。手早く文章を書き終わり、送信ボタンを押したらしい。
「何故、私の話題も出すんだ」
「嘘はついてないし、いいだろ?それとも、何か問題でもあるのか」
「いや…」
 波留の怪訝そうな声に、久島は俯いた。台詞が続かない。
 実際に、何の問題もない。それを彼は理解している。しかし何故か、話題に出される事に躊躇していた。その理由は、彼自身にも良く判っていなかった。
 沈黙した久島に波留は声を掛けない。携帯を再び鞄の中に放り込み、改めて持ち手を掴む。ジャケットとネクタイを腕の中に抱え直して机から踵を返した。いつものスニーカーではなくスーツに合わせた革靴の固いソールの音が床から響く。
 遠ざかりつつあるその音を聴覚に感じつつ、久島は顔を上げた。ワイシャツに覆われているものの、研究職にしては鍛え抜かれて広い背中を眺める。
「――波留真理」
 そして久島は、その名を口にした。呼び止められたと感じた側は、足を止めて振り返る。いつもの爽やかな笑みを浮かべていた。
 久島は両手を組み、その上に顎を乗せた。波留の笑顔を見据えて、無表情に口を開く。
「お前は――観測装置だ」
 久島のこの言い様には、波留は首を傾げる。唐突な表現に、久島が一体何を言いたいのか判らなかった。
 そんな波留を久島は見据える。一定時間操作しなかったために傍らのノートパソコンのモニタの電源が切れ、生じていた光が消えた。光源の消滅して顔に影が射す。しかし操作していた人間は意に介さない。奥の扉へと向かっていた相手の顔を見つめるだけだった。
「深海には、お前にしか観測できない事象が存在するらしい。未だ客観的には観測されていない事象だが、私はお前のその意見に賛同する」
 淡々とした口調で、久島の台詞は続いてゆく。それを真正面から受け止める波留は、相変わらず不思議そうな表情を浮かべていた。しかし異論を唱えようとはしない。相手の論理の終着点を見極めようとしていた。
「だから私は、お前を潜らせる事にした」
 その言葉に、波留は両目を瞬かせた。――どうやら改めて、久島が真意を語ろうとしているらしい。波留はそう認識した。
 だが、それにしても相変わらず良く判らない論理のままだと思った。筋は通っているようだが、そもそも「自分の体験談を何故信じてくれるのか」と言う前提は未だに説明して貰っていないからだ。確かに信じて貰いたい話ではあったのだが、無条件に信用されるとやはり気味が悪い。
「お前は常人には感じ取れない事象を普通に感じ取る。私は、お前を通してそれを知る。私にはお前のような能力はないらしいが、お前から横流しして貰い、そのお零れに預かろうと思う」
 ここで久島は口許を歪める。にやりと笑った。波留に寄越す視線が楽しげなものと変容した。
「せいぜいセンサーの精度を高めてくれよ――あくまでもお前はデータを集めてくる装置なのだから」
 波留は苦笑を浮かべた。何て言い草だと思う。何の事はない。俺の理論などどうでも良く、単に観測装置として利用したいだけか――彼は久島からの意見を、そう感じた。
 試しに潜らせてみて、本当に波留が言う現象を客観的なデータとして獲得出来たなら御の字なのだろう。まだまだ無条件に信じられている訳ではなさそうだった。
 それでも、一蹴されて終わらなかったのは、初めてだった。観測を試させて貰えるのなら、波留としても喜ばしい事には変わりはない。そして結果を出せば、文句を言われる筋合いはなくなる。少なくとも、この共犯者は味方についてくれるのだろう――。
 波留の苦笑も変容してゆく。眼前の状況を面白がるような笑みだった。彼に視線を合わせる久島も同様の笑みを含ませている。お互い、何かを判り合ったような気がした。
「人使いが荒いな、久島は」
「埋め合わせはするさ。いずれな」
 笑いながらも愚痴めいた台詞を零す波留に、久島は瞼を伏せて涼しい顔をしてみせる。微笑みながらそんな応対をしてみせた。
 波留は僅かに声を上げて笑う。目を細めて軽く肩を揺らした後に、口を開いた。
「久島」
「何だ」
 今度は波留が久島の名を呼ぶ。それに久島はすぐに応えた。波留は席に着いたままの同僚の顔を見据え、笑いを含ませた声のまま、言う。
「意外かもしれないけど…――俺、悪巧みって結構大好きなんだ」
 波留がその台詞を発した後、一瞬の間があった。そしてその沈黙を破ったのは、彼自身である。おかしくてたまらないと言いたげに、軽く吹き出した。
「そうだろうな」
 しかし、久島は平静を保ったままだった。悠然とした微笑を浮かべたまま、そう告げて首肯する。
 この態度に波留は怪訝そうな表情となった。どうやら久島からの返答は、彼にとっては意外そのものだったらしい。相手を驚かせるつもりが自分が驚き戸惑ってしまっている。その思いをそのまま口にする。
「…何だよ。あっさり流すんだな」
 何処か傷ついたような波留の態度に、久島は喉の奥で笑う。呼気を漏らした後、口角を上げたまま告げた。
「君には自覚はなかったのかもしれんが、君は私なんぞ歯牙にも掛けんレベルで狡猾な人間だと、私は既に知っている」
「えーそうなのか?何だかショックだな」
「貶してはいない。むしろ、褒めているんだがな」
 微笑んだままの久島からフォローが入るが、波留としてはまだ納得がいかないらしい。しかし首を捻りつつも、彼はそれ以上は突っ込まなかった。手荷物を再び持ち直し、ロッカー室へと入って行った。
 その背中を久島は笑みを浮かべて見送っている。そして傍らに待機しているノートパソコンのモニタに視線を落とす。今は電源が落ちて黒画面となっているが、そこには書き掛けのレポートが残されていた。
 ――まずは、これを仕上げてしまわなくてはならない。
 そして、その上で、共犯者としての悪巧みだかを始めなくては――。
 久島はそんな事を考えていると、やはり笑みが顔から消えて行かない。険しい道程である事は既に判り切ってはいるが、それを乗り越える喜びを感じていた。

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