以上のような密談めいた会話を経て、ふたりはようやく給湯室から抜け出していた。
 久島は席に着き、紅茶を片手にしている。デスクの上のノートパソコンは相変わらず黒い画面のままで、傍らにはくたびれたサンドイッチが置かれていた。
 その包みは開かれており、久島は右手にひとつ摘んでいる。野菜サンドを齧りつつ、紅茶で流し込んでいった。彼は特に空腹を覚えてはいないのだが、結果的に休息時間となっている今のうちに食してしまおうと思ったのだ。贈り主が眼前に居るのだから、一石二鳥と言う奴だろうとも判断している。
「――今後どう立ち振る舞うにせよ、現段階からも根回しは必要だな」
 久島の言葉に、波留は頷く。彼は紅茶のカップすら持たない手ぶらで、席の傍に立っている。
 先日の久島にも指摘された事だが、波留は研究職として電理研に所属している。国家機関に彼は期待されている立場で、現実に研究を抱えている身分である。
 一度だけであってもダイバーとして潜る予定を入れるならば、それだけ抱えている研究の予定が押す事になる。研究とは彼独りで行うものではない。合同で行っている同僚や、協力を仰いでいる別の機関も存在している。彼の作業の遅れは、その全ての人々への迷惑となるのだ。
 まして、本格的にダイバーチームへ異動して研究職でなくなるとすれば、研究を途中で放り出す事になってしまう。そうならないためにも引き継ぎなどに最善を尽くす必要があるし、途中で抜けるのだから心情的な問題も大きくなる。
 ――問題は山積みだった。それを考えると、波留の表情も歪む。
「うわー…今晩色々と偉いさんと話したのに、これから俺、どんな顔すりゃいいんだ…」
 波留は天井を仰ぎ、溜息混じりにそうぼやいていた。
 久島はその様子を横目で見ていた。野菜サンドイッチを半ばまでかじり取り、口の中で咀嚼する。パンに塗られたバターと野菜に馴染んだマヨネーズと胡椒が程良く混ざり合い、パンに中和されていった。
 閉店間際購入とは言え、不味くはないサンドイッチだった。波留が買ってくる食物は、どんなものであっても一定の基準を越えている――と久島は再認識しつつ、それ以上に彼を満足させている紅茶を啜って口の中身を流し込んで行った。
 口の中が落ち着いた頃になっても、傍らの波留は天井を見上げている。久島はそれを認めた後、口直しのようにまた紅茶を啜る。次いで、感想めいた台詞を漏らした。
「上の人間に不興を買う自覚はあるんだな」
「…まあな」
 言われた波留は、久島にどんよりとした視線を寄越した。性根は自由奔放である彼だが、社会生活をまともに営むだけの能力と矜持とを備えている。むしろ彼は、無理解な上の人間に喧嘩を売りがちのこの年上の親友を、やんわりと止めに入る立場だった。
「このオフィスの同僚に不平を言われる覚悟もしておけよ」
 そんな台詞で久島に追い打ちを掛けられ、波留は今度は大きく肩を落とした。天井を見上げていた所から、逆に俯き床の傷を確認する状態となった。
 上の人間の機嫌を損ねようが、彼らは遠い存在なのだからまだいい。机を並べた同僚達との間に波風を立てる事態が遠からぬ未来に訪れる公算が高くなった今、彼とて多少なりとも落ち込みたくなった。
 黙り込んだ波留を眺めつつ、久島はサンドイッチを口の中に押し込む。若干萎れたレタスやキュウリを噛み砕き、パンと共に飲み込んだ。波留の結んだ後ろ髪が肩に落ちている様が、まるで気を落とした犬の尻尾でも見ている気分だった。
 紅茶を口に含むと、残量が僅かとなった。口の中に残るサンドイッチの味を打ち消し、茶葉の香りを可能な限り感じ取る事とする。
「厭なら止めておけ。私も無理にとは誘わんよ」
 紅茶を飲み込んだ久島は覚めた視線を波留に送り、そんな事を言った。揺れた赤い液体は底が垣間見れる水深しか保持していない。彼はそのカップをテーブルに置いた。
「…いや。潜るさ」
 首を曲げて久島の方を見た波留は、そう答えていた。口許には笑みが浮かんでいる。前髪を掻き上げつつ、言葉を継ぐ。
「お前には、迷惑掛けるけどな」
「私に迷惑を掛ける前提か。なかなかに図々しい男だ」
 久島は頬杖を突き、そんな感想を漏らした。彼の視線の向こうにサンドイッチはまだ1個残っているが、解いた包み紙の上に置かれたままだった。
 その近辺に、ついと手が突かれた。掌が机の上に広がり、変哲もない白いワイシャツに覆われた腕を支えている。
 久島は視線を上に動かし、腕の先を見やった。そこには、前屈みに波留が机に手を突き、久島の顔を覗き込んでいる姿があった。
 至近距離にてふたりの視線が交錯する。不意に、波留の瞳に悪戯っぽい瞳が宿った。
「久島は、俺の共犯者になってくれるんだろ?」
 波留は小さな声でそう嘯いた。言葉を発した後に、口許でにやりと笑い、その表情を親友に晒す。この言動のせいか、久島は両目を瞬かせている。波留はその態度に笑いを深めた。
 そんな波留だったが、不意に、右手に衝撃を覚えた。上腕部に横方向から力を加えられた感があり、さしもの彼もバランスを崩す。
 慌てて両足は床に踏ん張り、右腕は曲げて肘を机に突く。どさくさにノートパソコンに身体が当たるとか、サンドイッチを押し潰すとか、カップを倒すとか、その手の事態を懸命に回避しようとした。特に一番最後の事態が勃発しては非常にまずいと彼は内心焦る。
 それらの回避行動は一瞬の事だった。波留は中腰になって右肘を机に突いた状態で、身体が静止する。この時点でようやく彼は、右手上腕部を掴まれた事に気付いていた。だからバランスを崩したのだと思い至る。
 そしてそれを成す相手は、現状ここには独りしか存在しない。その犯人に不平をぶつけるべく、彼は口を開こうとした。
 そこにまた、腕を掴まれた。今度は付け根の辺りを掴まれ、引き寄せられる。波留の半開きの口から怯んだ声が僅かに漏れた。
 またしても強引に動かされた波留だったが、それにも対応し切ってバランスを取り直して静止する。落ち着いた彼は、いよいよ何か言ってやろうと首を捻ろうとする。親友に視線を合わせようとした。
「共犯者か。そいつは…――」
 そんな波留に小さな声が聞こえてきた。それは本当に、彼の耳許にもたらされていた。
 久島の口許は波留の耳許にあり、そこに小声で囁いている。声質よりも空気の振動や唇の動きの方で、言葉の内容を把握出来る程の至近距離だった。
「…いい響きの言葉だと、私としても認めざるを得ないな」
 微細な感触に顔をしかめていた波留だったが、その振動が途切れたと知り、首を捻じ曲げた。至近距離のまま、相手に向き直る。
 語り終えた久島の口許には笑みがこぼれている。そしてその瞳に宿っているものは、挑戦的な笑みだった。
 波留はそれを認め、心の底からの笑顔を浮かべる。そして彼は勢い良く顔を突き出した。
 額と額がぶつかり合う固い音がする。波留は、多少は痛みを覚えた。しかし笑みは途切れない。楽しくて仕方がなかった。そしてその想いは向かい合っている人間も同様だと、表情が物語っていた。

[next][back]

[RD top] [SITE top]