微かな機械音の後、ポットが立ち昇らせる湯気が徐々に収まってゆく。内部でのお湯が煮立つぼこぼこと言う音も消えていった。
 ポットのランプは再沸騰モードから保温へと切り替わっている。その状態を波留はちらりと目をやり、確認した。
「…いいのか?」
 その最中、波留はぼそりと声を発した。
「何がだ」
 主語を廃した問いを受け、すぐに久島はそう答える。波留からの質問の意図が掴めないため、逆に質問していた。
 波留は顔を上げた。ポットのランプから久島の顔へと、視線を移す。
「何がお前の心の琴線に触れたか知らんが…俺が勝手にダイバーチームに回って」
「これは、今回だけの特例だからな」
 久島の台詞に波留ははっとした。そして口を噤む。
 ――すっかりダイバーチームに異動するものと思っていた。久島はそれを認めてくれたのだと思い込んでいた。彼は、その甘い見通しに気付く。
 確かに「特例」で「1回限りのダイブチーム参加」ならば、どうにか都合がつくかもしれない。そもそも波留は素人ではない。これまでの海洋研究では自力で潜ってデータを取って来ているのだから。
 そしてフリーダイビングの世界においても世界的実績があった。ダイブチームのメンバーにも波留のその一面を知る者は多い。彼らは心情的には、二つ返事で迎え入れてくれる可能性があった。
 しかし、それが恒常的となると、様々な面で話が違ってくる。波留はこれまでの研究職としてのキャリアと研究を捨て去る事になる。そうなると、最早波留当人だけの問題ではなくなるのだ。
「それとも君は――この1件だけで済まさんつもりだったのか?」
 波留の思いを知ってか知らずか、久島は冷静に問い掛けてくる。
 そして、正にその台詞は波留の心中を言い当てていた。しかし波留は言葉に詰まったままだった。その台詞を肯定するのは簡単だったが、自重して思い留まっている。
「君はそんなに潜りたいのか。研究職の待遇が不満か?」
「…そんな訳じゃないよ」
 久島の問いに抗弁する波留は、自らの唇が尖っている事に気付く。子供っぽい態度だと自嘲したくなった。
 研究自体には不満はない。やりがいがある仕事だと思っていた。しかし、その研究のためにも、自分は潜って答えを得なければならない――そんな想いに付き動かされているだけだった。
 その想いは徐々に沸き上がってきている。今まではそれはどうにか押さえ込んできたのだが、こうして眼前に人参だか油揚げだかを吊るされてしまうと、もう歯止めが利かなくなりつつある。
 俯き黙り込んでいる波留を、久島はじっと見ていた。様子を伺うような視線を送り、彼自身は腕を組み直立している。
 やがて、久島は溜息を漏らした。瞼を伏せたまま、口を開く。
「――君が今後、この電理研でどう立ち振る舞いたいかは、個人の自由だ。私は口を挟まんし、そんな立場ではない」
 瞼で瞳を覆い隠した事で、相対している波留には久島の本心が見えてこない。硬い表情で黙り込んだまま、年上の同僚の言葉を待った。
「但し、私が君の味方に回る可能性は、厳然として存在する」
 久島はそう言い出した時、波留は顔を上げた。思わず久島の顔を二度見する勢いだった。久島の閉じられた瞼を、彼は不思議そうな顔をして見やる。
「私を味方につくかどうかは、次の観測実験で君がどんなデータを持ち帰ってくるかに拠る。君がダイバーとして特別な存在だと私が認めたならば、異動願いに口添えしてやってもいい」
 久島は、この台詞の最後の方では、瞼を開く。口許に微笑みすら浮かべていた。
 それに、波留は呆気に取られる。台詞の内容と、それを発したプロジェクトリーダーの超然とした態度とに戸惑っていた。
 が、波留はやがて眉を寄せてゆく。徐々に険しい表情へと変貌していった。
「…お前、俺を試すつもりか?」
 それは、驚く程低い声だった。ゆっくりとした口調で、確認するかのように訊く。
「今度のダイブをテストの場にしたいのならば、決して私を失望させるな。君には、口先だけではない所を見せて貰う」
 果たして、年上の同僚からは辛辣な言葉が返ってきた。上司でも何でもない相手が、テストを標榜した行為を迫っている。しかも人事に対して何の権限も持っていない人間なのだから、その「テスト」の結果も何ら拘束力を持たないはずである。
 無意味であり笑い飛ばしたい話題だった。しかし、それ以上の意味で、この持ちかけは波留を刺激していた。彼は胸に右手を当てる。口許を歪め、笑った。鋭い視線で久島を見据え、言う。
「この俺を、フリーダイビングでテストしようなんてな」
 波留真理とは、自分のレコードを振りかざすような人間ではない。謙虚かつ自らの力量を良く理解しているフリーダイバーだった。だからこそ限界を超える事なく素晴らしい記録を打ち立てている。
 だがそれは、必ずしも自信の欠如とは一致しない。過度な謙遜は彼より記録を出せていない殆どのダイバー達への侮辱でもあるからだ。彼にはそれだけの人間の記録を背負っている自負があった。それを全くの素人に軽んじられたと思うと、気分が悪い。
「記録の面においては、確かに君に敵いそうなダイバーは殆ど居ないのだろう」
 険悪とも自信に満ちたとも言える鋭い視線を突き刺されつつも、久島は涼しい顔で言う。それは久島の素直な感想だった。門外漢の彼にも、フリーダイビングの大会記録の羅列を眺めたら、波留真理と言う選手がどれ程の逸材かは理解可能だった。
 久島はすっと目を細める。その瞳が光を帯びた。波留の鋭い視線を真っ向から受け止め、中空にてぶつけ合う。
「だが、これは記録会ではない。有益なデータを君が持ち帰ってくるかどうか――それが私の唯一の判断材料だ。心しろ」
 ふたりは視線をかち合わせたまま、沈黙した。日が変わろうとする時間帯の殆ど無人のオフィスの空気は静謐で、締め切られた窓の向こうからもトラックの走行音が途切れてしまっていた。
 先に緊張の糸を断ち切ったのは、黒髪の青年の方だった。彼は軽い溜息を漏らした後、口角を持ち上げた。それでも、いつもの笑みではない。何処か勝ち気な印象を与える表情で、告げた。
「それって…――楽しそうだな」
 その言葉に、久島もふっと笑う。どうやら彼は、この話に乗ってきたらしい――そう判断した。
「それはどうも。ダイバー波留真理」
 相好を崩しながら久島は年下の同僚を、そう呼んだ。それは、付き合って以来初めて選択した表現だった。その事実に気付いた彼は、ますます微笑みを深める。またしても、何故か指先がちりちりと熱くなるような心地がした。

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