流し台の上から、不意に水が弾けるような音が発せられてゆく。それに波留は気を取られた。彼は、その音源らしき傍らの電動ポットを見やった。 クリーム色のポットの天頂部に位置する排気口から湯気がうっすらと立ち昇ってゆく。そして注ぎボタンの近辺に配置されている沸騰ランプが点灯していた。保温ランプから切り替わっている。紅茶のカップを重ねてきた今では水量が減少しており、どうやら再沸騰モードに自動的に入ったようだった。 機構的な問題とは言え、それは空焚きに近い事態である。良く起こり得る事態ではあるのだが、波留は水を足そうかそれとも一旦コンセントを抜こうかと考えた。どうあれ、ポットに手を伸ばそうとする。 そこに、久島の声が届いた。 「――君が言いたい事は良く判った」 その言葉に、波留は顔を上げる。ポットではなく、久島の方を見る。 腕を組み波留を見据えて立っている久島の表情は冷静そのものだった。冷徹と言い換える事が出来たかも知れない。笑ってはいないが、真剣そのものと評するには何処か突き放した印象を含んでいる。 その久島の態度に、波留は唇を歪める。また自分の経験談を信じられていないと思った。親友であるはずの人物でも、このような常識外れの「事実」を認める程思考がぶっ飛んではいなかったようだ――。 顔を顰めている波留を、久島はずっと見つめている。平静を保った表情のまま、口を開いた。 「本当に良く判ったよ。次の観測実験は、君が潜れ」 その久島の言葉は、ごく自然な口調でもたらされていた。仕事の際に交わすような冷静な言葉であり、命令形であっても語気に強さはない。久島にとってはあくまでも通常の指示の域を脱していないと言いたげな態度だった。 「――………は?」 しかし波留は、大きく口を開け、その言葉を発するだけで精一杯だった。何を言われたのか、良く判らない。先程の久島の台詞を脳内に捕まえて留め、咀嚼する。そうやって理解に努めようとした。 波留のその態度に久島は眉を寄せる。口許を歪め、心外だと言わんばかりの表情を作り出した。どうやら彼にとって波留の今の態度は想定外だったようである。 「即答しないのか。二つ返事じゃないのか。てっきり君は自分で潜りたいものだと思っていたのだが。実際に先日、そんな事を言っていたではないか」 明らかに不満げな久島の態度に、波留は慌てる。両手を胸の前で振り、声を荒げて必死に訴えた。 「いや、それ正しいけど!お前の心遣いには感謝するけど!」 慌てる波留を目の当たりにし、久島の眉間に刻まれた皺がますます深まる。正しいだの感謝するだの言われた所で、その慌て振りの意味が彼には良く判らない。だから額面通りに感謝の言葉を捉えていいものかと思う。 久島は首をゆっくりと横に振り、溜息を漏らした。彼としては、波留にどうしてこのような態度を取られるのか、全く訳が判らない。その思いがそのまま口から吐き出される。 「煮え切らん奴だな。プロジェクトリーダーたるこの私が、お前の望み通りに便宜を図ってやると言うのに、何が不満だ?」 波留は口篭もった。唇を歪めて固く閉じる。そして喉の奥で唸り声を上げ、右手で頭頂部を大きく掻き回した。そうすると、立てた彼の指に結ばれていた髪が絡み付き、いくつもの筋に分かれて乱れる。彼の内心の混乱を表す仕草だった。 唐突に波留のその手の動きが止まる。肩を揺らして大きな溜息をついた。彼は右手を髪に差し込んだままの姿勢で、久島をじろりと見た。その瞳には、何処か疲れを感じさせる色を湛えている。 「――…どういう風の吹き回しだよ」 そう口を開いた波留に、久島は僅かに首を傾げる。やはり親友の困惑を理解出来ていない様子だった。 それを認めた波留は、正に困り果てた。そもそも何故このプロジェクトリーダーがそんな結論に至ってくれているのか――自分こそ、それが理解出来ないのだ。 双方の理解を深めるためには、何を糸口として問い掛ければいいのか。波留はそう思い悩み――先程久島が出した話題に乗る事にした。 「あの時、お前はあんなに反対したじゃないか」 「あの時点では君が提示した論理には、私は何ら説得されなかった。しかし、今は違う」 波留からの問い掛けに、久島はあっさりと答えていた。それは何も包み隠してはいない、彼の中の本心だった。事実、彼はそんな心情変化を経ているのである。そこを問い質されてもそれ以上は何も出てこないし出す必要などないと思った。 そんな久島に、波留は明らかに困惑した表情を浮かべた。首を傾げる。「あの時」と明確に指し示してはいないが、行き違いはないように思われる。しかし、それなら何故こうも相手の考えが理解出来ないのだろう? 「…俺、何か特別な事言ったか?」 状況が掴めないまま、波留はそんな風に訊く。その言葉に久島は腕を組んだまま答える。 「それがお前に判らんにせよ、私は別に構わん」 「何だよそれ…」 自分は理解していないと表明しても、相手側には説明の意志はまるで見られない。こうなると、波留には最早理解の余地がなかった。 ともかくこのプロジェクトリーダーは勝手に何かを理解し、納得してくれたらしい。その事実は事実として受け容れるべきなのだろうかと、波留は何処か疲れた心地の中で思う。 「何にせよ、君に私は説得されたのだ。唯一の理解者を得た事に、せいぜい喜べ」 「何か釈然としないぞ、この展開…」 相手側は相変わらず平然と言い放ってくる。その言動に、波留が感じる疲れはますます増幅されて行った。 確かにこれは、相手が言うように「喜ぶべき展開」のはずである。「自分が潜って観測実験をしたい」――そう常々思い、それを告白したら却下されたその考えを、ここで肯定されたのだから。 にしても、その肯定への流れが唐突過ぎていまいち理解出来ないとなると、気色が悪い。何せ、波留自身には久島を説得した自覚が全くないのだ。 |