「――…って、感じだったんだけどさ」 久島の主観において光が視界から消え去った頃に、そんな言葉が耳に届いてきていた。その声は耳慣れた男の声だった。聴覚に最早バイオリンの音色は感じられない。 現実に帰還した久島は、今も呆然としている。傾いたカップの蔓に差し込まれた指は、一部がカップの腹に当たっている。そこから直に紅茶の熱が伝わってきているのだが、彼はそれが気にならない。 ゆっくりと、左手を持ち上げた。その手で自らの頬に触れる。頬に触れる掌では熱を感じる。そしてその掌自体が震えている事実を、頬越しに感じ取った。 ――何だ、今のは。 久島の脳内ではその言葉が繰り返される。幻聴と幻覚――不意に自らにもたらされたそのあり得ない感覚に、彼は動揺している。 「…久島?」 視界の向こうでは、20代後半の男が不思議そうな顔をしている。反応を返してこない久島を怪訝に思ったらしい。 その声に、久島は顔を上げた。戸惑いつつも、視線を波留へと向ける。そこに立っているのは黒髪の青年だった。普段と違いスーツ姿ではあるが、先程までの現実と何ら変わらない姿である。それを久島は再認識する。 そこまで考えが至ると、久島の動揺は別の方向へと至る。脳内に連呼される言葉が、微妙に変化した。 ――何だ、こいつは――。 ちりちりと、右手の人差し指が熱に焼かれる心地がする。火傷を危惧する感覚に意識が支配された事で、彼は思惟の迷宮から戻された。 久島は、その手にあるカップをゆっくりと持ち上げる。角度が変わった事で人差し指はカップ表面から離れ、火傷の危機は回避された。 未だにカップの大半の水位を占めている紅茶が揺らぐ。芳醇な香りが彼の鼻先に漂ってくるが、彼の意識はそこにはなかった。 左手を顔から引き剥がす。掌の表面は汗を掻いていた。それは冷や汗だったのかもしれないと、久島は他人事のように思った。 久島は一歩を踏み出す。波留に歩み寄り、ゆっくりとカップを下ろした。電動ポットの傍らに、マグカップが落ち着く。かたんと音が立ち、波留はそこに視線を落とした。 「――…波留」 「何だよ」 久島から呼びかけられた波留は、笑って先を促す。何ら特別な仕草はない。カップを下ろして俯いたままの久島の横顔を見やった。 そんな久島は、ぼそりと言った。 「君…海とひとつになりたいんだってな」 久島はそう告げた後に、横目で波留を見やる。いつものように、無遠慮な視線だった。 「え…何だそれ。何処かのインタビュー記事でも読んだのか」 波留はその話題に照れ臭そうに笑う。彼にとっては、意外な話の展開だった。 久島と言う同僚にフリーダイビングの話題を振られる事は、今までにあまりなかった。海洋観測に関係する事については熱心に会話するが、プライベートについては興味を持たれた事はなかったからだ。 自分達は「親友」の枠内に入ってしまう関係らしいが、その関係は仕事の上からあまり逸脱した事はない。休日まで顔を合わせるのが常態化している付き合いはしていなかった。 「実際に、海とひとつになれた感覚がする事もあるんだって?」 「まあ…そうなんだよな。上手く説明出来ないけど」 世間話を振った割には笑わないまま言葉を続ける久島に、波留は苦笑を浮かべて応じる。右手の人差し指で鼻の頭を掻いた。この年上の親友にプライベートの趣味の話題を振られるとは珍しい事態だが、ともかく訊かれた事にはそのまま答えて行った。 「…俺の説明が悪いのか、誰も判ってくれないんだよ」 「他のフリーダイバー達にも、その話題は通じないのか?」 「彼らはまだ理解しようとしてくれるんだが、どうしても観念的な話だと思われちゃうんだよな。俺としては実際に体験してる話だってのに」 「ふむ…」 愚痴めいた波留の言葉が途切れると、久島は顎に右手を当てた。俯き、考え込むような仕草を見せる。 波留はそんな沈黙する彼の横顔を見ていた。いつしか久島のその手がずれ、口許を覆っている。 口許を隠されると、外部からは表情の殆どが読み取り辛くなった。――まさか真面目腐って考え込んでいるのか?それとも、笑われているのか?前者はあり得ない話だと思うし、後者は馬鹿にされていると言う意味合いになるのだから、話した波留としてはやはり厭な話だった。 やがて、久島は波留の方へと眼球を動かした。波留をちらりと見やり、口許は覆ったまま、質問を発する。 「――君は、海には一体何があると思う?」 その問いに、波留はきょとんとした。面食らったような表情を浮かべる。 が、すぐにその表情は苦笑へと変化して行った。その心情がそのまま口から突いて出てくる。 「おいおい…こんな夜遅くに仕事の話か?」 波留の冗談めかした答えに、久島は眉を寄せた。視線が険しくなる。覆われた口許から、僅かに舌打ちらしき音が聞こえてきた。 波留を睨み付け、久島は向き直る。その勢いのままに、右手を口許から振り払うように外した。 「答えろ。どんな答えでも、今なら訊いてやる」 有無を言わせない口調だった。その態度に、波留の顔から苦笑が消える。 更に久島は、右手を振り上げた。波留へ向かい、人差し指を突きつけ、強い口調で言い放つ。 「こんな機会、今しかないかも知れんぞ」 波留にとって、その台詞が決定打になった。 久島の表情と口調から、冗談で話しているのではないと判る。そして「どんな答えでも訊いてやる」と言い放ったのだ。どんな答えでも――つまり、普段の仕事中ならば笑い飛ばされ罵倒されるような戯言でも――。 それを認識した波留はゆっくりと首を横に振る。己の中に巣食っていた迷いと戸惑いとを振り払った。前髪と後ろ髪が振られて額や首筋に当たるくすぐったいような鬱陶しいような感触がする。 そして波留は意を決し、口を開く。彼はぼそぼそと話し始めた。普段の彼とは違い、歯切れは必ずしも良くはない。自らの中に存在しているとおぼしき曖昧な答えを、今この場で掴み出そうとするかのようだった。 「――…俺にも良くは判らない。しかし…海底から何か、波動のようなものを感じる事があるんだ」 瞼を伏せて語りながら、波留は首の後ろに右手をやる。そこに垂れ下がっている後ろ髪を掴んだ。引き抜くように弄び、髪から離した手で更にうなじを撫でつける。 「何だろうな…水深100mは越えないと確実じゃないんだ。そんな環境でようやく感じるものだから、所謂ランナーズ・ハイの類だと思われてしまうんだが、俺は確かに、現実にそれを感じてるんだ」 自らの内心を波留は訥々と話す。今もこうして言葉を重ねてはみるが、果たして他者に信頼して貰えるかどうかはこれまでの経験から半信半疑だった。 相対する久島は腕を組んでいる。眉を寄せ、目を細めた。その先に立っている波留をじっと見据えている。 「100mとは人間が至る領域としてはぎりぎりの水深だろうが、潜水機材なら容易く潜れる深度だな。しかし、そんな波動を観測したチームを、私は寡聞にして知らない」 久島が発したのは冷静な意見だった。そしてそれが他者が理解する「現実」である。波留は今までの実体験から、それを痛いまでに知っていた。だから彼の顔は歪む。うなじを撫でつける手が止まり、力が篭もった。 そんな彼を見据える久島は、軽く息を吸った。何かを言おうとする。そして、次に言葉を継いだ。 「その感覚は、潮流とはまた違うのか?」 「違う」 久島としては表現を変えてみたつもりらしいが、波留は即答している。首を横に振り、態度としても否定した。 「強いて言うなら、波動が海底から浮き上がってくるんだ。潮流とは違い、その力に身体が流されるような感じはしない」 語りながら波留は両手を胸の前に持ってきた。その手を掲げる。瞼を伏せたまま、その感覚を脳内に思い起こそうとした。あの、海と一体になったかのような、身体と海との境界線が消失したかのような――。 「むしろ、何だか、包み込まれて心地良いと言うか…――」 自然に波留の口許には笑みが浮かんでくる。そしてそれ以上は言葉が続かない。重ねるべき言葉が彼の中に見付からなかった。それをどう表現していいのか、決して語彙が乏しい訳でもない波留真理と言う男にすら思い浮かばなかったのだ。 そんな彼を見やる久島の視線は鋭さを増していた。彼もまた、自らの脳内に思いを浸らせてゆく。 組んだ両腕にて、右手の人差し指が不意にちりちりと熱さを訴えてきた。しかし彼は熱い紅茶入りのカップをもう手放している。指先は熱から解放されているはずだった。 逆に、今の彼の視界には光は見えない。同様に、聴覚にあのバイオリンの曲を感じる事もなかった。 |