給湯室では、波留が再び紅茶を淹れ始めている。
 和やかな会話の着地点を見せた後、ふたりは紅茶を飲み切った。そこで波留はまた久島に紅茶を淹れる事とした。買ってきたサンドイッチを食するには、紅茶の手助けがあった方がいいだろうからだ。
 結果的にまた流し台の上では、白いマグカップの縁からティーバッグの持ち手が垂れ下がっている。ポットの水位はかなり減少していて、後2、3杯で切れる所まで追いやられていた。
 波留はカップを眺めている。何をどう観察しているのかは、彼以外の人間にはまるで判らない。今この場に同席している久島とて例外ではない。
「――久し振りに話せた人や偉いさんも居たし、久島も来れば良かったのに」
 沈黙を破り、波留はそんな事を言い出していた。しかしその視線はカップから外される事はない。
「クラシックは私の趣味じゃなくてな」
 久島は苦笑を浮かべ、答えた。彼に、嘘をついているつもりはなかった。確かに「趣味ではない」から行かなかったのだから。
「確かにエントランスホールは社交場と化していたかもしれんが、それが君らの主目的ではなかろう」
「席に着いても演奏聴かずに、素数でも数えてたら良かったんじゃないのか?」
 ――よりにもよって何故素数暗唱なのか。脳内で考え事とか、そう言う方向ではなく。
 そんな事をしていては本気で無為に時間を費やす「暇潰し」ではないかと、久島は思う。居眠りを許容するよりはましな意見なのかもしれないが、どちらにせよ酷い話だろう。
「私は、冷やかしは好かん」
「相変わらず妙な拘り持ってる奴だよなあ…」
 取り付く島もない久島の言動に、波留は困ったように笑う。ちらりとカップに視線を落とすと、良い頃合いだったのか、彼はティーバッグを摘み上げた。
 ティーバッグをゴミ箱に処分し、彼はカップを持ち上げた。笑顔を浮かべ、久島に差し出す。
「俺、クラシックって全然判らないからさ。お茶しながら沙織さんに色々教えて貰えて、面白かったよ」
 久島は波留からカップを両手で受け取りつつ、そんな台詞を耳にしていた。
 熱い紅茶を淹れられて数分経過したマグカップの表面は充分に熱せられていた。両手で挟み込んで持つには、少々熱い。波留がカップの蔓から指を引き抜いたのと入れ替わりに、久島はそこに指を絡めて持ち手を変えた。
 カップを顔に近付けると、ふんわりと香りが漂ってくる。それを鼻腔に嗅いだ後、彼はカップを傾けて液体を口に含んだ。
 ――癪だが、やはり美味しい紅茶だと思う。これを淹れた当人は、久島の向こうで腕を組んで流し台に寄りかかっている。微笑み、久島を見ていた。
 その表情に、久島の感情が刺激された。2口目を飲もうとしたのを中断し、視線を波留へと向けた。カップから口を剥がし、言う。
「…お前、楽しそうだな」
「そりゃ、様々な人と話し込むのは楽しいさ。自分が持ってないものが得られるからな」
 笑い、波留はそう答えた。どうやら本気で言葉通りの事を思っているらしい。久島は彼の態度から、そう感じ取った。そしてその興味津々な表情のままに、彼女と会話してきたのだろうとも推測がつく。
 このように、波留は門外漢の分野にも、関わった以上は一定の興味を抱く。その貪欲さには感じ入るものがない訳ではない。しかし、彼が真に思い入れるものはごく限られているはずだった。
 それこそ、海が彼の全てだろう。
 何処までも広い海を体現するつもりか久島には知らないが、波留の興味は際限ない。そしてそこが他者を誤解に陥れる一因ではないだろうか?
 ――小湊さんが妙な誤解を抱いていなければいいのだが。内心溜息をつきつつ、久島はそう思った。
「――でも、あのコンサート、本当に凄く良かったよ」
「…ほう?」
 そんな事を言い出した波留に、久島は意外そうな声を上げる。まさか、本気でクラシックに興味を持ち始めたのだろうか?これを機会に、彼女からCDなどを借りる算段でも付けたかと思った。
「音楽って知識で聴くものじゃないんだって、身に沁みたよ」
 波留は胸元に右手を当て、そんな事を言った。瞼を伏せ、満足げな表情を浮かべている。
「そんなに楽しかったのか」
「ああ。沙織さんが言ってたけど、今後有名になるだろう人達ってのが良く判った。演奏で俺みたいな門外漢を感動させるなんて、そうは出来ない芸当だろうから」
 その言葉に、久島はあの日の小湊沙織と波留との会話を思い返す。確かに当時、彼女はごちゃごちゃとそんな事を言っていた。
 今回のコンサートは音大生の卒業演奏のようなものだと小耳に挟んでいた。そして彼らへのクラシックファンからの評価と実際の腕前とはきっちり合致していたらしい。余程高名な面々だったのか――幼少の頃からコンクールで優勝を重ねてきた猛者揃いで、そんな演奏者達を優れた指揮者が率いたのだろうか。
 不意に、久島の脳裏にある風景がよぎる。
 しかし、彼はそれをすぐに打ち消した。眉を寄せ、首を横に振った。
 そんな彼をよそに、波留は語り続ける。頬は微妙に紅潮して来ていた。その場での興奮を思い出したようだった。
「特にさ、バイオリンの人の音色が好みだった」
「妙に限定するんだな」
 言いつつ、久島は瞼を伏せる。漂ってくる紅茶の香りに意識を集中した。妙な記憶を打ち消すには、眼前の興味に打ち込むのが最適だと思った。
「いや、他の人の音も凄く良かったんだけどさ。でも俺にはその人の音は酷く鮮明に聴こえたんだ。聞き分けがつく程に」
 波留の言い分に、久島は思わず怪訝そうな視線を向けた。――素人が音色を聞き分けるだと?確かに音色は演奏者によって微妙に異なるものだが、その聞き分けとは耳を鍛えた人間のなせる技のはずだ。
 久島の内心の呟きとは、それである。しかし彼はそれを口にはしない。黙って波留の言葉を聴くのみだった。
 彼の眼前に、まだ熱い紅茶の湯気が浮かんでゆく。ぼやけた視界の向こうで、波留が両手を上げた。
「アンコールでさ、その人がソロやったんだ――」
 言いつつ、波留は左腕を肘から曲げた。顎を軽く上げ、顔を傾ける。そして右腕を左腕の上に向けた。腕同士が触れる事はない。まるで右手に何かを握っているような感じで、軽く指を曲げる。
 微かな湯気が被った視界に、久島は目を見張る。彼には、波留がバイオリンを構えた姿が目視出来たからだ。
 それ程までに、波留の仕草は自然だった。本当にクラシックに疎いのかと問い質したくなる程に、完璧に形状模写を成していた。
 それは波留の観察眼の高さ故なのか、他に原因があるのか。久島には判断がつかなかった――少なくとも、この時点においては。
 波留は微笑む。バイオリンを顎と肩の間に挟み込んだような格好を保ち、右手を翻らせた。中空を、勢い良く右手が動く。まるで、バイオリン本体に弓を当てて弾いたかのように。
 その瞬間、久島の聴覚には確かにその音が捉えられていた。
 バイオリンの弦が擦れた事に由来する、滑らかな音色が響き渡る。
 彼は瞠目する。息を飲んだ。マグカップが口許から外れた。
 波留の右腕が動いている。良く良く見れば、左手の指も細かく動いていた。それこそ、弦を押さえる指の運び方のように。
 それらの運指は適当なのか、本当に観察して記憶してしまったのか。久島にとって、そこは問題ではなかった。
 波留の動きに従い、バイオリンの音色が脳内に響く。久島の前ではそれが紛れもない現実だった。
 音色は単音ではなく、意味を成したメロディである。それはちゃんとした曲を演奏しており、その曲名は彼が良く知っていた。
 とうに忘れてしまっていたはずの指の動きすら、無意識に再生する心地がした。
 紅茶の湯気が煙る視界の向こうで演奏の真似事をしているのは、黒髪の青年だったはずだ。だと言うのに、久島はその軽く揺れて動く頭が褐色の髪に見えた。
 そしてその姿は青年ではなく、もっと年齢が下がってゆく。少年が額にヘアバンドを巻き付け、長い前髪を持ち上げてバイオリンを弾く姿が、そこにあった。しかしその姿に似合わず、演奏は実力者のそれである。
 確か、昔はもっと稚拙で、それでいて情熱的だったはずだ――私とは違って。
 演奏の動きが止まる。瞬間、久島は視界に光を感じた。
 その向こうに垣間見える姿があった。
 バイオリンを弾いているのは少年ではなく、多少年齢が上がっている。高校生程度の年齢であり、何処か生意気そうでいてそのくせ何かに飽いたような顔をしていて――。
 久島は、奥歯を立てる。噛み締める感触は現実に存在する。だから今、自分は現実にその足で立っているはずだった。
 それでは、脳内に響いてくるこの音色は一体何だと言うのだ。やけに美しい――純正律と呼ばれる奏法のそれは――。
 顔を俯かせて最後の音を弾き切ったその彼は、ゆっくりと久島の方を見やる。その横顔を、久島は目の当たりにした。
 背筋に冷たい感覚が駆け抜けてゆく。と同時に、息苦しいまでの高揚感が、胸に溢れてきた。

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