ふたりは結局、給湯室の中で紅茶を嗜んでいる。男ふたりが並ぶとそれなりに狭くなるスペースではあるのだが、どちらともなくオフィスに戻る気配を見せなかった。 久島は何口か紅茶を飲んでいる。一口ずつ含み、その都度口の中で転がして味を楽しんでいた。瞼を伏せ、味覚に集中する。 口に広がる味に、彼は満足せざるを得ない。しかしふと瞼を開いてみたら、そこに映るのは白磁のティーカップではなく無骨なマグカップだった。最早片付けは済んでいるが、これはスーパーで売られている大量生産品のティーバッグで淹れられた紅茶だとは、にわかに信じ難い。 久島の視界の向こう側では、黒髪の青年がマグカップを傾けている。彼は彼なりに自ら淹れた紅茶を楽しんでいるようで、満足げに微笑んでいた。 そんな親友を久島は一瞥する。そして、口を開いた。 「――…何故それを、お前は私にわざわざ言ったんだ」 「ん?」 問われた波留は、顔を上げた。カップから外れて露わになった口許には、相変わらず笑みが浮かんでいる。 彼を見据え、久島は眉を寄せる。少し唇が歪むのを自覚した。 それは、あまりに不意に思い浮かんだ考えだった。だから口にするのを躊躇う。しかし、問い質しておくべき事だと考え直した。 「お前は、勝手に誤解していた人間の…言わば汚点を、他人に告げ口するような男か」 そう言われた波留の口許から笑みが消える。口を噤み、真顔になった。顔の前からカップを外し、傍らの流し台に下ろし置く。ステンレス張りの台に青色のカップがかつんと音を立て、落ち着いた。 一方の久島はその言葉を投げ掛けた後、再び白いマグカップに口を付けていた。瞼を半ばまで伏せ、波留から視線を外す。唇に接触してくる液体は暖かさを保っていた。しかし、その温度は確実に低くなりつつある。 後輩のミスを、本人が預かり知らない場所で、笑い話のネタに仕立てる。たとえ波留もその笑い話の一員だったにせよ、このやり方は欠席裁判めいていて、久島の趣味には合わなかった。 彼とて、他者のミスには確かに憤りを覚える事もままある。が、当人が不在の場で上げ連ねて嘲笑する行為は、ストレス発散と言うにはあまりに下劣ではないかと思うのだ。時折そういう職員は電理研にも存在するのだが、久島はそれを楽しむ性分ではない。 だと言うのに、親友と思っていたこの波留もその一派に属する事もあるのだとすれば、久島としては多少ショックな事実だった。 波留は腕を組み、首を傾げている。口を結び、久島の方を見ていた。 やがて、肩を揺らして溜息をつく。困ったような表情を浮かべ、言った。 「――だって久島、沙織さんのあの時の態度に、ちょっとむっとしていただろ?」 その意見には、久島は虚を突かれた顔になる。思わずカップから顔を上げた。若干、仰け反る心地がする。 「彼女にはそう言う事情があったって、俺からの弁解だよ」 追い打ちのように、波留の言葉が続いてくる。言い募るその顔には「図星か」とでも書いてあるかのようだった。 久島としてはこの論理展開は、意外だった。問い詰められてみれば、確かにあの初対面の新入職員には不快感を覚えていたかもしれない。それを気付かされた事と、もう一点は、当人すら明確な自覚がなかったこの心情を親友に見透かされていた事だった。 波留は右手を上げた。久島を指さす。苦笑気味に、告げた。 「だから、今度沙織さんと会っても、あんまり怒るんじゃないぞ。俺自身は納得してるんだから、余計なお世話だ」 波留からの視線を受け、久島はまたカップに視線を落とす。そこにたゆたっている赤い水面の水位は、カップの3分の1にまで減少していた。彼はそれを眺めるだけだった。カップの縁に口を付け、カップを傾け、飲もうとはしない。 頬には僅かに熱が伝わってきていた。ぬるくなりつつある紅茶とは言え、至近距離ならば温度差を感じ取る事が出来ていた。そこに揺らぐ液体を眺めつつ、久島は口を開いた。 「…私は、そんなに狭量に見えるのか」 「充分に」 即答だった。思わず久島は両目を瞬かせ、眉を寄せた。視線を上げると、その短く明快な回答を寄越した男がにやりと笑っている。 それを確認した久島は、ますます眉間に皺を深く刻む。険悪な表情を浮かべ、相手を睨み付けた。 「私なら貶してもいいと思っているのか、お前は」 「面と向かって言い放ってるだけ、まだ健康的だと思うけど?」 鋭い視線を向けられても、波留は全く怯まなかった。相手の表情は険悪なのだが、彼はそれを受け流している。 この態度には久島は呆気に取られた。台詞の応酬だけ耳にすれば口喧嘩そのものなのだが、表情を見るに相手にはそんなつもりは全くないらしい。 こうなると、久島の方も険悪さが薄れてくる。そもそも相手側の論理は一貫している。確かに当人同士が顛末に納得しているのならば、第三者が口を挟む筋合いはないのだから。 そして、陰口を叩かれるよりは面と向かって不満を言ってくれる方が、彼の好みに合致していた。直接言ってくれたら、改善の余地があるかもしれないのだから。 そんな風に考えを深めていくに従い、久島の口許には笑みが浮かんでゆく。そして彼は、思った事をそのまま口に出した。 「――違いない」 短い台詞だったが、波留もそれに呼応するように笑った。それを視界に入れた久島は微笑み、口許に紅茶を啜った。 |