しばしの間の後、波留はティーバッグをカップから完全に取り上げた。それを給湯室のゴミ箱に放り込む。
 足でペダルを踏んで蓋を上げる方式のゴミ箱に、波留はバッグをふたつ投げ込んだ後、爪先を外して蓋を閉める。ゴミ箱の中身は事務職員が退社時に処分しており、真新しいゴミ袋の中にバッグが2個吸い込まれるのみだった。消臭処理も怠っていないらしく、ゴミが入っていないゴミ箱からは臭いは殆ど漂っては来なかった。
 波留は流しに置かれたペーパータオルを1枚取り上げ、それで白いカップの縁を拭き取る。僅かに垂れていた赤い液体を丁寧に取り払った。
 そしてその白いマグカップを微笑み持ち上げ、久島に手渡す。久島は勧められるままに、それを受け取った。
 香り立つ赤い水面が間近にある。彼はその香りを鼻先に嗅ぎ、思わず目を細めた。自分が淹れる紅茶では、どうしてもこうは行かないものだった。その差を思い知らされる。
 視界の向こう側に垣間見える波留の表情は、相変わらず明るい。彼は彼で自らのカップを口に付けている。それに釣られるように、久島も赤い液体を口に導いていた。
 香り同様、舌に感じられる味も非常に良い。程良く時間を掛けて抽出された茶葉の成分が、丁度良い温度となったお湯に染み出している。液体を口の中で転がし、彼はその感触を楽しんでいた。瞼を伏せて感覚を鋭敏に保ち、味に集中する。
「――そうそう」
 そこに、波留が話を振ってきた。笑みを含ませた声が久島の耳に届く。
「沙織さん、俺を同期だと勘違いしてたんだって」
「…は?」
 久島は、その台詞の内容を一瞬把握しかねた。だから馬鹿のような声を漏らすばかりである。
 そんな彼を前に、波留は右手を翻らせた。笑みが深まる。おかしくてたまらないと、彼の表情全体が雄弁に語っている。
「だから、初対面の時、俺にタメ口だったんだよ」
 波留の言葉がそこまで至った時点で、ようやく久島の脳裏にはある情景が思い浮かんでいた。その数日前の出来事については、偶然にも先程追想していた。しかし今思い浮かべるべきは、その後にやってきた女性に波留が声を掛けた光景だった。
 それは今思えば、奇妙な光景だった。まだ正式入社してもいない職員が、既にキャリアある「先輩」に向かって丁寧語も用いていなかったのだから。
 そこに多少の引っ掛かりも覚えなかったのかと問われたら、久島としては嘘だった。しかし仮に海外暮らしが長かった人間だとすれば、日本式の敬意の示し方に慣れていないのかもしれない。彼はそうも考えて、結果的に礼儀を知らない女性を不問に処していた。
 或いは、咎めるのを面倒臭いと感じたのもある。無礼な人間には敢えて関わりたくはないと思いたくもなるのも、人情だった。忠告にもエネルギーは消費される。そんな余計な事をして心理的に疲れたくはない。
 ともかく、直接「無礼」を働かれた人間は、全く意に介していない様子である。彼はそれを一貫して笑い話と捉え、語り続けていた。
「同期だと思ってたのに、俺は向こうにいた偉そうな人間にタメ口叩いたから、その時点で妙だと思ったんだって」
 しかし、この波留の台詞には、さしもの久島も口籠っていた。今までは他人事だったが、ここで久島自身も俎上の人となったのだから。
 とは言え、この台詞を訊いただけで「自分」だと気付いたのも癪な気分だった。顔を歪め、押し殺すような声で彼は言う。
「…誰が偉そうだ」
「お前」
 波留からは、間髪入れず端的に答えが寄越された。あろう事か、にやりと笑って久島を指で差してすら来ている。その態度に、久島はますます顔を歪めた。不愉快な心境に陥る。
「少しは誤魔化してみせろ。友達甲斐のない奴だな」
「久島って、歳がようやく外見に追いついてきたよな。と言うか、電理研入りした後に髪型変えたら、一気に老けたのか」
「余計なお世話だ」
 久島が発する不平を、波留は物ともしない。彼の外見と態度とを、あくまでも笑い飛ばそうとする。
 それを目の当たりにした久島の口許には皺が寄った。苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、久島はカップの中の液体を啜る。彼にとって、その味は相変わらず極上だった。
 逆にそれが今の久島には気に食わない。こんなにも素晴らしい紅茶を淹れる人間だと言うのに、どうしてこうも可愛げのない年下なのかと思う。
「その点…俺って、まだまだ学生に見えるんだなあ」
 波留は自分の胸に手を当てた。ネクタイが解けたその胸を軽く反らせ、満足げに笑ってみせる。
 その様子を久島は苦々しげに見ていた。確かに波留の自己分析の通り、あまり社会人には見えない容貌である。それは髪型や服装から来る印象ばかりではない。顔立ち自体が若々しいのだった。
 しかし、世の中において、若く見える事が必ずしも好ましいとは限らない。久島はそれを指摘した。だが、そこに若干の苛立ちと僻みがない交ぜになっている事に、彼は無自覚だった。
「むしろ、社会人として見て貰えない事を恥じるべきだと思わんか?」
 果たして波留は、言葉を発さずに笑うのみだった。無言でカップに口をつけ、紅茶を含む。それを見た久島も、とりあえずそれ以上の言葉を費やそうとはしなかった。

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