久島が給湯室に辿り着いた頃には、一帯には紅茶の芳醇な香りが漂い始めていた。白い湯気が、流し台に置かれたカップから一筋立ち昇っている。
 そこに並んでいるカップは2個だった。ひとつは先程久島から徴収した彼自身のマグカップである。そしてもうひとつはスカイブルーと表現すべき薄く青い色が乗ったカップだった。
 その青いカップは波留の私物だと、久島は知っている。どうやら彼は久島のついでに自分の飲み物も調達しに掛かったらしい。
 事務職員はポットを満タンにしてくれておいて良かったと、久島はふと思った。そして先程の不平はいざ知らず、現金なものだと自分の思考の流れには苦笑したくなった。
「――飲むにはもうちょっと掛かるぞ、久島」
 流しの前に立つ波留は、やってきた久島を横目でちらりと見た。電動ポットの注ぎ口の下に置かれたカップを動かさず、視線を注いでいる。
 そんな彼を見やり、久島は歩み寄る。彼の隣に立った。
「――波留」
 隣で名前を呼ばれた男は、顔を上げた。その表情には呆れの色が濃い。
「…何だよ。珍しく、せっかちだな」
「そうじゃない」
 憮然とした表情で久島は波留の言葉を否定した。久島は旨い紅茶を飲むためには多少の手間暇は惜しんだ事はない。今回も同様の轍を踏んでいる。
 今、波留を呼び止めたのは、別の事情からだった。彼はそれを口に出す。しかし何処か、躊躇いがちではあった。
「――…小湊さんは、どうしたんだ」
「ああ。沙織さんか」
 波留はあっけらかんと答えた。表情も明るい。それは彼にとって、いつもと同じ態度だった。
 しかし今、それらを認識した久島は、一瞬面食らった。だが彼は、その表情をすぐに掻き消すように心掛ける。波留に気取られないようにした。
「駅まで送ったよ」
 果たして波留の態度に変化はない。相変わらず朗らかなままに、久島の問いに答えていた。
「それだけか」
 一方の久島としては、拍子抜けしていた。どうやら彼らはイベントが終了したらあっさりお互いの帰路に着いたらしい。少なくとも今の波留の弁では、そう解釈せざる得ない。
 そんな眼前の親友に、波留は苦笑を浮かべた。右手で前髪を掻き上げつつ、言った。
「夜も遅いし家まで送りましょうかって言ったんだけど、彼女の自宅は最寄り駅から近いから大丈夫だからって、断られた」
 その言葉に、久島は瞼を瞬かせる。反射的に腕時計を見やり、現時点での時刻を確認した。
 そこに現れているのは、間もなく日も変わろうかと言う時間帯である。別れた後での互いの足取りに費やした時間を差し引いたにせよ、ふたりが別れたと思われる時間帯を類推するに、そこそこに夜は更けていたのではないかと思った。
「今の時間…女性独りで大丈夫なのか?」
「そこは彼女のプライベートだから。断られた以上、たとえ親切心でも、無理強いは出来ない」
 危惧を口にした久島に、波留は肩を竦めた。その言葉には、久島も納得する他ない。
 単なる同僚に、自宅住所を教える事を好まない女性職員は多いだろう。夜に女性を自宅まで送ろうとした事と、それを断られてすぐに引き下がった事と、波留はふたつの気を遣った格好になる。少なくとも、それは男として最善の態度と言えるだろう。
 改めて、久島は腕時計の針が指し示す時刻を思う。彼らの足取りとその所要時間を脳裏で計算してみた。
 すると、今の時間はやけに遅いような気がした。コンサートがそんなに長引いたのだろうか?――そんな素朴な疑問が沸いてきた。久島は改めてそれを問いかけてみる。
「――コンサートが終わって、君達はすぐに帰ったのか?」
「いや。まだ電車ある時間帯だったし、駅の構内でお茶してきた」
「…そうか」
 問われた波留は、あっさりと新情報を追加してきた。それに、久島は俯き加減に頷く。前髪が目許に掛かる心地がした。
「他の皆は飲みに行こうとしてたけど、沙織さんは厳密にはまだ学生だから外させて貰った」
 苦笑気味に語る波留の言葉に、久島はまた無言のままに頷いていた。
 どうやら小湊沙織に社会人の洗礼を一足先に浴びせかける事態は避ける事にしたらしい。そしてその判断はおそらく正しいのだろうと、久島も波留の判断に追随していた。
 研究職とはまだまだ男社会であり、普段は規律正しい連中であっても羽目を外す時は酷い事態に陥る事もままある。その醜態を正式入社を果たしていない人間に晒しては、折角獲得したエリート学生に内定を辞退されてしまいかねない――そんな打算混じりの危惧が彼の中に思い浮かんだのだった。
 波留は視線を落としている。そこには2個のカップが並んでいた。その水面からは、ふんわりと白い湯気が未だに立ち昇っている。そしてその液体にはじんわりと赤が滲み出していた。
「でも、コンサート前後には沙織さんも偉いさん達に面通し出来たし、入社前の人間としては行って良かったんじゃないかな」
 言いながら波留は、カップの縁に引っかけていたティーバッグの隅を摘む。軽く糸を引き上げると、水面に同心円が走った。僅かに起こった波と空気の流れが、久島の元に紅茶の香りをもたらしてくる。
 久島は顔を上げた。漂う香りに感覚が刺激される。しかし、波留の発言の方に意識が行く。
「お前…それが、彼女を誘った狙いだったのか?」
 社会人の卵に過ぎない新入社員は、社会や社内での立ち回り方をまだ学んでいない。そんな彼女に、上司や他部署や他社の人々に自己を紹介する機会を作ってやる事は、とても良い気の回し方だと久島は気付いていた。
 久島からの探るような視線を受ける波留は無言だった。意識を紅茶に集中させているようで、ティーバッグを軽く持ち上げた状態で水面を緩やかに掻き回していた。
「――まあ…後輩への気遣いって奴?」
 空調のみが響く中、呟くような声がした。
「俺、あちこちで一番年下だった事が多くてさ。そこでどんな事をされたら自分の利益になりそうかは、実体験として判る」
 波留は多くは語らないが、エリートの道を邁進してきた人間にもそれなりの気苦労があるのだろう。その手の苦労を久島は幸か不幸か経験していない――少なくとも、学問においては。
 それにしても――そんな後輩への親愛の感情に、女性への優しい扱いがない交ぜになって――何処かややこしい事態になりやしないだろうか。こうやってこの男の態度は勘違いされてゆくのだろうか。久島は妙な感覚に捉われた。
 そんな彼の周りには、微かな紅茶の香りが充満してゆく。その香りは確かに心地よいものだった。

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