「…波留。何故戻ってきた」
 久島は目の前の光景を認めた後、心中を落ちつかせた。さりげなく、手元を操作してブラウザを閉じる。ステータスバーにレポート用のいくつかのプログラムが収まるままとしていた。
 波留は苦笑を浮かべる。左手には何処かの店舗のロゴが入ったポリ袋を持っており、空いた右手で自分を示した。
「これ、着替えたいんだよ。スーツは窮屈でたまらない」
 言いながら波留は、右手を首許へと導く。そこに結ばれたネクタイに指を滑り込ませ、結び目に指先を割り込ませて引いた。
 その様子に、久島は軽く口を開いた。何かを言いたげな表情を見せる。しかし、現状は彼は何も言わず、波留がネクタイを解くのを眺めるばかりだった。
「――ああ、そうそう」
 ネクタイを解きつつ、波留は気付いたような声を上げる。そして左手のポリ袋を久島へと差し出した。
「これ、差し入れ」
 押し付けられた久島は、拒否する事が出来ない。勢いのまま、胸にその袋を抱え込んだ。口を開くと、包装されたサンドイッチが覗いている。
「どうしたんだ、これ」
「ホールからの帰り掛け、駅のパン屋で買ったよ。まあこんな時間だから、閉店間際の割引かかった残り物だけどさ。コンビニよりはマシかと思って」
 波留の説明を聞きつつも、久島はそのサンドイッチを見ていた。変哲もない野菜サンドである。多少よれている感はあるが、まだ新鮮味は残っていた。おそらくはパン屋の店内にて夕方に作られたものだろう。コンビニ販売の工場生産の品と比較すれば、健康的な食材を用いていると思われる。
 ふう、と波留が声を漏らす。それを聞きつけた久島が顔を上げると、波留はネクタイを解いてしまい、首に掛けるばかりになっていた。更にはシャツの首許のボタンも2、3個を開けてしまう。
 鞄を自らの机の上に置き、羽織っていたジャケットを脱ぐ。ネクタイを首から外し、纏めて椅子の背もたれに掛けた。
 それから波留は笑顔で久島に手を伸ばす。久島はその手を怪訝そうに見つめた。何を求められているのか、判らなかった。
「――ついでだから、紅茶も淹れてやるよ」
 久島に視線を合わせて頷いた波留は、そう言った。久島の席に置かれた白いカップを見やる。
「ああ…では、頼もうか」
 納得した久島はカップを取り上げた。若干重いままのそれを、波留へと手渡す。
「…あれ。まだ残ってるじゃないか」
 その重さを感じ取ったらしい。受け取った波留は首を傾け、カップの中を覗き込みつつそう指摘する。
 久島は右手の掌を振る。興味を失ったかのような態度を示し、言った。
「別に構わん。処分してくれ」
 その態度に、波留は口を尖らせた。不満そうな表情を浮かべる。眉を寄せ、言う。
「勿体ない事言うなよ」
「じゃあ、君が味見してくれ。それは私が淹れた紅茶だ」
 言われた波留は久島を見た。首を傾げた後、カップの水面を覗き込む。そして彼は、その縁に口を付けた。液体を軽く口に含み、飲む。
 その様子を、久島は伺うように見上げていた。波留の喉元が動く様を確認してから、問い掛ける。
「――どうだ?」
「別に。普通」
 にべもない返答だった。それに、久島は肩を落とす。明らかに落胆した様子だった。
「…普通って言うな」
「じゃあ、どう答えろと?」
 怪訝そうな声が波留から発せられる。そうとしか表現出来ないのだから仕方ない――そう言わんばかりの態度である。
 久島は溜息をつく。どうやら言葉を費やさないと判って貰えないようだと悟った。そして彼はそれを実行する。
「君の紅茶とは雲泥の差だろう?そこを指摘してくれ。後日生かしたい」
「そんな事言われてもなあ…久島の紅茶も充分美味しいと思うよ」
 要領を得ない波留の答えに、久島はまた溜息をついた。どうも噛み合わない。
 そんな彼を放っておいて、波留はカップの紅茶を飲み進める。そして給湯室へと向かった。
 久島はその背中を見送る。ポリ袋からサンドイッチを取り出した。包装されたそれを解こうかと、隅に位置する切れ目に触れる。が、飲み物がない今、パンの類を食する気にはなれなかった。
 パソコンのモニタに視線をやる。今回はまだスタンバイ状態にはなっていない。全ての作業窓が収納された状態で、壁紙も設定されていない緑色のデスクトップがそのまま現れている。
 彼はキーボードに触れたが、それ以上の操作はしない。手持ち無沙汰な心境に陥る。独りきりだった今までならばそのまま作業に戻ればいいのだろうが、どうも同僚に戻ってこられたせいか、そんな気になれない。
 結果、彼は席を立つ。手ぶらのまま、給湯室へと向かった。

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