奇妙なティーブレイクの後には、久島は持ち前の集中力を発揮していた。
 窓辺にて1杯の紅茶を嗜んだ後に改めて2杯目を淹れた。今度は使用済みティーバッグをきちんと給湯室のゴミ箱に捨てる。そして紅茶のみが注がれた状態のカップを自らの席へと持ち帰っていた。
 整理整頓されたデスクの片隅にその白いマグカップを置き、彼は席に着く。そしてノートパソコンの画面に向き直り、キーボードに手をかけた。キーボードからの操作を受け、電源が落ちて暗くなっていたディスプレイに光が戻る。
 そこに展開されていた実験データのファイルとそれを元に執筆されている報告書ファイルとに、ざっと目を通した。これからの論理構成を脳内に徐々に浮かび上がらせる。そしてそれを形にすべく、キーボードを叩き始めた。
 それからしばし、彼は席を立つ事はなかった。視線を画面から外す事すらない。空調が効いた室内で喉に乾きを覚えたなら、傍らに置いておいたカップを手探りに掴み、一口だけ含んでまた元の位置に戻す。その行動をたまに挟みつつも、画面を凝視し続けている。そうやって彼は脳内で論理を整理し、それをキーボードに叩き付けアウトプットして行った。
 さしもの彼の集中力も、口許に導いたカップから液体が一切流れ込んでこなくなった事で途切れる。想定外の事態に、意識が取られたのだ。
 彼は怪訝そうな顔をしてちらりとカップに視線を向ける。その白い底には赤い露が残るのみで、飲めるだけの量ではなかった。
 自らの思い通りに行かなかった現実に、彼は眉を寄せる。ほぼ空のカップを机の上に戻した。カップを置き、引いた左手首から腕時計が垣間見える。
 彼はふと気付き、手首を曲げて自らの顔の前に持ってきた。時計の盤面が露わになる。そこに示された時刻を確認する。
 ――そろそろコンサートも終わった時間だろうか。
 ふと、そんな事を思った。
 これまでの言動からも判るように、久島は件のコンサートには一切興味を持っていない。或いは、持たないように心掛けていた。
 だから、今回のコンサートの概要は一切知らない。開演時間すら明確に見聞きはしていなかった。只、今日の職員達が続々と退勤していった時間帯から、開演時間を推測可能だっただけである。
 開演時間を推測出来るならば、知識として終演時間も推測が可能である。余程イレギュラーなプログラムでなければ、その演奏時間は2時間程度だろう。観客の帰路を考慮すれば、長くても3時間を超える事はないはずである。そしてクラシックに素養がなさそうな人間を動員するようなコンサートなのだから、テンプレートに則ったプログラムを持ってくるだろう――。
 職員達は既に退勤している。時間も遅くなってきているため、今更戻ってくる人間も居ないだろう。もし気になっている仕事があるならば、明日の朝早く出勤する道を選ぶと思われる。
 そこまで思考を纏め上げた時点で、久島は息抜きに紅茶を淹れ直すかと思う。
 大体、今日のコンサートには色々な人間が出席しているのである。そちらの面での付き合いも重要であるはずだった。残された仕事は明日にでも出来るが、人との付き合いはそうはいかないものである。
 独りきりのオフィスには空調の音とサーバーのファン音が静かに響き渡るのみである。時折、外の公道を通る大型車両が音を立ててゆく。日本のみならず世界の主要港湾たる博多港は、夜になっても落ち着く様子は見られない。
 久島は席を立ち、静かに3杯目の紅茶を淹れてゆく。電動ポットの貯水ラインはまだ半ば以上を保っていた。備え付けのティーバッグもまだ品切れに至る状態ではない。
 今回、久島は意識して時間を計り、紅茶を淹れてみた。そしてティーバッグをカップから外し、その場で一口飲んでみる。
 淹れ立ての紅茶が良い香りを彼の鼻先にもたらした。口に含んだ液体の温度は少々熱いような気もするが、味はそこそこだった。自力で淹れる事が出来るレベルの最上位がこの辺りだったと、彼は判断する。
 しかし、波留はこれ以上のレベルの紅茶を何の気無しに淹れてくる。その腕前は、周辺の女性職員の追随を許さない。
 誰もが彼に御教授願っても「湯温と時間に気を配って…後は、まあ、勘?」と最後に付け加えられたその単語こそが最重要項目であるらしく、誰も彼と同等レベルの紅茶を淹れる事が出来ていない。そして紅茶に限らず、コーヒーや日本茶でも同様の事態を引き起こすのだから、ある意味始末の悪い研究職だった。
 ――「勘」では困るのだ。誰もが使いこなせる理論にして貰わないと――。
 紅茶を口に含みながら久島はそんな風を思っていたが、ふと昼間のやり取りが脳裏によぎる。
 確か――彼は、あの時もしまいには「勘」と口走っていた。
 波留はダイバー達の観測データに異論を唱えて来て、久島がその根拠を問い詰めたら、「勘」と言い出した。しかもその結論に対して、当の本人はおかしいとは思っていなさそうだった。まるで、そう表現するしかないのだから仕方ないとでも言いたげで――。
 久島の眉間に皺が刻まれる。右手の人差し指をそこに当て、瞼を伏せて顔を俯かせた。
 すぐに顔を上げる。彼は左手にカップを持ったまま、給湯室を出てゆく。自らの席へと戻った。
 またしてもスタンバイ状態に切り替わっていたパソコンを機動し直す。光が戻った画面に表示されたレポートのファイルを、久島は一瞥した。
 しかしそのファイルを一時的に画面から格納する。そしてネットブラウザを立ち上げた。
 そのデフォルトページは電理研トップであり、久島は職員専用ページに切り替えて自らのIDとパスを送信した。その手順で、一般公開されている領域からイントラネットへと移動する。
 電理研内のイントラネットには、各職員の手に拠る論文が掲載されている。そこには電理研所属以前のものも一部含まれていた。過去の研究を明かす事でその職員の専門やこれまでの実績が一目瞭然となっていた。
 現状、電理研の殆どの職員は、他企業や大学からの引き抜きである。そのために研究論文も当時の所属組織とのしがらみがあり、利害関係や契約上の問題から不特定多数に公開出来ないような代物もある。
 一般公開はされない独立行政法人のイントラネットという形式だからこそ、どうにか掲載にこぎ着けた論文も多い。他では決して目にする事が出来ない、ある種の閃きと知の集積がそこにある。
 久島はテキストベースで簡素な職員一覧を眺める。五十音順に並んだ人名の半ばに、波留真理を捜し当てた。
 そこを選択すると、イントラネットに登録されている彼のいくつかの論文に行き着く。久島は時系列順に、その論文を開いていった。
 それらの論文を、久島は以前のうちに目を通している。だから今回、改めて集中して読むつもりはない。只、確認したい事があるだけだった。
 登録されている波留の論文は、大学院時代と企業時代のものである。どちらも日本に居ない時期に書かれたために、基本的に英語ベースで執筆されている。日本の電理研のイントラネットに載せられるにせよ、翻訳されてはいなかった。
 もっとも、研究職ならば英語はかなりのレベルで使いこなせる。電理研に属する人間ならば、論文を英語そのままの状態での読解など基礎教養レベルだった。海外の研究者とのやり取りも多いのだから、意思の疎通に堪えるだけの語学が出来なければ話にならない。
 ともかく久島がざっと目を通してゆく波留の論文は、論理が明快で判り易い。人員不足からなのか、その頃は波留自らが潜りデータを取得し、それを元に研究を進めている。しかしそのデータには他の客観的な視点から検証を加えられているため、不合理な点は一切見られない。
 そこで語られているのは決して簡単な内容ではないのだが、同じ業界の研究者相手ならば、その論理はすっと入ってくる。論理展開が上手く、提示するデータの取捨が絶妙なのだろう。

[next][back]

[RD top] [SITE top]