騒々しく出ていった年下の同僚の気配は、時間を経るに従いオフィスから徐々に消えてゆく。 ――全く、意外に馬鹿だったか。久島はそう思い、溜息をついた。ちらりと自らの席に視線を落とすと、ノートパソコンのモニタは相変わらずスタンバイ状態のままである。 あの同僚には、本当に仕事の邪魔をされてしまった。残業するからには効率よくやらなければ、時間の無駄にしかならない。本来なら就業時間内にやるべき仕事を、時間延長して行うのだ。これもまた日本社会の悪しき慣習のひとつと言えるが、それを差し引いても社会人としてあまり好ましい行動ではないはずだった。 だから、早く仕事に戻るべきだ。久島はそう思う。しかし、どうにもすぐに思考が戻ってこない。消えていった同僚に対する悪態を1ダース分は心の中に並べ立ててしまい、落ち着かない。 久島は右手を挙げ、前髪を掻き上げた。顔を上向かせ、溜息をつく。気を紛らわせるように視線を室内に一巡させると、給湯室の小さなスペースが垣間見えた。 手を下ろし、久島はその方へと歩いてゆく。給湯室には備え付けの電動ポットがあるはずだった。 本来ならば電力削減のために終業前には事務職員が中のお湯を捨ててしまい、電源ケーブルを抜いてしまう取り決めになっている。しかし残業が常のこのオフィスにおいては、最後まで残った研究職が責任を持ってその処置を行う事になっていた。 そして今日、久島は自分が居残ると事前に周辺に伝えてある。だからポットの電源は抜かれていないはずである。 流しの上に置かれているポットの電源ランプは点灯している。そして外からも確認可能な貯水量ゲージは、満タンを指し示していた。どうやら気を利かせた事務職員が、帰る間際に注ぎ足しておいたのだろう。 しかしその現状を見た久島は、眉を寄せる。 ポットは何の変哲もない家庭用の機種である。10数人程度のオフィスなのだから、それで充分だった。どうしても間に合わないのならばコンロとヤカンも備え付けられているし、他の部署から融通して貰えばいいのだから。ともかく、このオフィスには都合の良い機種だった。 だからと言って、今日残業しているのは、自分ひとりである。なのに、今尚満タンだった。 私はこんなにお茶の類を飲むと思われているのか?余れば捨てられる水なのだから、勿体ないではないか――彼の脳裏にそんな愚痴がよぎる。 どうも、他者からの親切心を素直に受け取れない。やはり何処か神経がささくれている。彼はそう自覚した。 内心のぼやきをよそに、久島は戸棚を開け、そこに並ぶ統一性がないマグカップから、ひとつを選び出す。白一色の、ワンポイントプリントすらないマグカップである。そしてそれが久島が自分で用意した自分用のカップだった。 更に戸棚を漁ると、黄色い箱から黄色い包装紙を摘み出す。それを解いて現れたのはティーバッグである。彼はそれを自らのマグカップに入れた。その上からポットの湯を注ぐ。湯が当たるとバッグ内の茶葉が解れ、ダージリンの香りが徐々に漂ってくる。そしてコップの中に溜まった湯がティーバッグから放射状に赤く染まって行った。 久島はそれを腕を組んで見下ろしている。すぐに溶けるインスタントコーヒーと違い、紅茶は茶葉から成分が抽出されるのにしばしの時間がかかる。それを待てずにさっさとティーバッグを出してしまう輩も居るが、それでは薄い紅茶となってしまう。 砂糖やレモンで味を誤魔化す前提ならばそれでもいいかも知れないが、ストレートで味わうのが常である久島としてはティーバッグ1個を1杯の紅茶で使い切る事にしている。 壁に掛かっている時計が、狭く区切られたスペースに針の音を響き渡らせている。久島はそれに耳を澄ませるが如く微動だにしていなかったが、やがて腕を解いた。溜息をつき、マグカップの蔓に指を差し込む。 彼はカップを持ち上げ、給湯スペースから出てゆく。ティーバッグを淹れたまま、オフィスへと戻った。どうせ自分しか居ないのだから、多少気を緩ませてもいいだろうと思った。 そのまま歩みを進め、窓際へと向かう。窓一面にはブラインドが下がっている。 閉められているブラインドの隙間から、明るい陽光が差し込んでくる。その微妙に変化した色合いから、外は夕焼けに染まっているのだろうと彼は感じた。 何気なく、吊り下がっている紐を左手で握る。軽く操作すると、ブラインドが平行に動き、視界が開いた。窓の向こうの光景が露わになる。赤く染まる空に掛かった雲が微妙な色合いの陰を作り出している。その下には建物や倉庫群が広がり、更に向こうには港湾と海が存在するはずだった。 決して悪くはない眺めである。海洋研究と言う業務上、電理研は博多埠頭に立地し、市街地やオフィス街からは外れた位置に存在している。外に出たら潮の香りが濃厚に漂ってくるものだった。 おそらく、窓を開けても同様だろう。しかし空調が効いたままで、就業時間を迎えてセキュリティが作動しているこのオフィスでは、それを試す事は出来ない。 ブラインドを開いた状態にしたにせよ、線状の羽が平行に連なっている。完全に視界は開けていない。その隙間から、久島は何気なく下を見下ろした。この建物の間取りから考えるに、この窓からは丁度玄関付近と外門が見えるはずだった。 特別なイベントを抱える今晩の場合、その付近に人影が見られない。オフィスに人の気配もない以上、自分以外の人間は出ていったはずであると久島は思った。 ――彼はそう思っていたのだが、唐突に玄関口から人影が現れる。 予想外の事態に、彼は思わず顔を突き出した。間近で確認しようとするが、ガラス窓とブラインドに阻まれる。気を取り直して一歩引き、指先をブラインドの羽に当てた。軽く押し下げ、隙間を広げる。 夕焼けに染まるロータリーに、藍色のスーツ姿の人物が現れていた。遠目になるが、首許に垂れる結ばれた黒髪も確認出来る。 彼は後ろを振り返り、玄関口から誰かが歩いてくるのを待っている。そして久島の視界にも、玄関口からグレーのスーツを着た女性が現れてきた。 上方からの遠目なので顔立ちなどは良く判らない。しかし久島には彼らが誰なのか、すぐに理解出来た。オフィス内に残っていた人間はごく限られている。そして今頃になって出ていく人間を思えば、更に特定が可能だった。 女性が男の元に追いつき、ふたりは並んで歩いてゆく。スーツに着替えてもいつもの肩提げ鞄では印象が台無しだと、久島は馬鹿馬鹿しく思った。 ふと、ふたりは足を止めた。車が進入してくる様子もないロータリーの道半ばにて立ち止まる。正門に立つ警備員は彼らに目を留める事もなく、相変わらず逆方向たる道路側に身体を向け、職務に邁進している。 久島が見下ろす、ブラインドの隙間からの視界にはスーツ姿の男の背中が見える。それに向かい合うように立つ女性が何かをやっていた。 ――そう言えば。彼はネクタイを解いたままオフィスを出ていった事を、久島は思い出した。 玄関先に出てきた今、彼の首許はどうだっただろうか。久島はそれを思い出そうとするが、このように限られた視点ではそこを捉えていたかどうかすら覚束ない。 それにしても、こんな所でやるか。 せめて――合流した時点、休憩室だかの屋内でやっておけ。 見下ろすだけで一切関与出来ない人間は、何処か愚痴めいた事を心中で呟いていた。 ふと、右手の人差し指が熱い。そこに視線を落とす。 マグカップの蔓に差し込んだ指先が、カップ側に触れている。そしてそこに注がれたお湯がカップを暖め熱し、かなりの温度へと至らせていた。 マグカップの側面には糸が垂れている。そしてその先には黄色い紙が繋がっていた。逆方向のカップ内へと導かれている糸は、赤く染まっていて――。 そこで彼は気付き、視線を更に移動させる。カップの中を見やった。 カップの中にたゆたっているお湯は、赤に近いオレンジに染まっていた。その赤色はお湯の下の方に沈殿していて、色の層を作り出している。そして糸が垂れたお湯の先には、ティーバッグがあった。 左手首の腕時計を見る。紅茶を淹れるからには時間は事前にチェックしていた。その時間から、5分が経過している。かなり蒸らし過ぎている。 久島は眉を寄せた。舌打ちする。顔の前にカップを持ち上げると、濃い香りが漂ってきた。軽く振動を加えると、お湯の色の層が解れ、混ざり合う。それでもティーバッグは定位置から動こうとはしなかった。 糸がかなり先まで赤く染まったような気がした。そんな風に久島は顔の前のカップに視線を向けていると、その向こうの窓から気が逸れていた。 我に返り、外を見る。すると今まで視線を注いできた男女は、正門の警備員に挨拶をしている所だった。 かなり距離が離れたため、最早ネクタイがどうとか判らない。ましてや彼らはオフィスの建物側に向き直る事はない。側面や背中しか久島は確認出来ていない。 彼はそのまま彼らの背中を見送る。時計の時間を思い出し、そんなにゆっくりしていて開演に間に合うのかと独りごちる。 波留はあれでしっかりしているから――と言い張っていいのか。先のネクタイや待ち惚け喰らわせなどを思い返せば、久島からはそう言う面での自信が少々失せていた。 ならば、あの小湊沙織と言う名の新入職員が居るから大丈夫なのだろうか。彼女は元々あのコンサートに行きたい人間だったようだから、その辺りは自ら進んで考えているはずだろう。 しかし、そう言い切れるのだろうか。 久島は彼女の事を良くは知らない。だから、あれで波留のような、有能かつ何処か抜けているタイプだったら――と、危惧した。 だからと言って、波留の携帯に通話を試みたり、メールを出してみようとは、考えない。そこまでする事かと思う。 むしろ、そこまで面倒をかけられてたまるかと思った。 彼の鼻先に、濃い紅茶の香りが漂ってくる。また、その存在を忘れる所だった。 彼は憮然とした表情を浮かべる。そして唇をカップの縁につけ、中の液体を軽く口に含んだ。 紅茶がしっかり抽出されている。とても濃い仕上がりになっていて――苦味の方が強く感じられた。 ――…彼らのせいで、失敗してしまった。 久島は敢えて自分の事を棚に上げ、責任転嫁していた。もっとも時間超過の理由は彼らに気を取られたからなのだから、「責任」の所在はある意味間違っては居ない。その当人達は、その責めを負えと言われても納得行かないだろうが。 口許に何か別のものが当たる感触がする。 カップから口を離し、視線を落とす。そこには糸がカップの中へと垂れ下がっていた。そして紅茶の湯面の底には、赤を撒き散らす存在が居残っている。 飲む段階になっているのに、ティーバッグを取り去るのを忘れていた。それに気付いた久島は、一気に脱力する。何て馬鹿げた事を――。 しかしそれを捨てるならば、給湯室のゴミ箱のはずである。オフィス内にこのようなものを捨てるべきではない。 ならば――。 半ば捨て鉢な心境で、久島はそのままカップを傾ける。給湯室に戻る事なく、窓際に居残って紅茶を飲んでいた。 |