その数分後に、奥の扉が開いていた。 スーツを翻らせ、波留が姿を見せる。その基調は藍色だった。やはり彼は濃い色の衣服を選択している。 姿を現した波留は肩に手をやり、そこを揉む仕草を見せている。纏った時点でもう肩凝りを覚えているのかと、久島は思わず苦笑を覚えた。 「――何してるんだよ、久島」 歩み寄る波留は、久島の笑みをよそに怪訝そうな顔をしている。久島が何時の間にかに波留自身の机の前に立っている事態を不思議に思ったらしい。 そのうちに波留は久島の傍らに立ち、右手を伸ばした。久島の手にある茶封筒をひょいと摘み上げる。唐突な行動だったので、久島はあっさりと手を放す。 波留の手に、茶封筒が取り返された。彼はそれをちらりと眺め、自分の私物である事を確認した。机の上に置いておいた物を勝手に取られていた格好になるのだが、波留は特に気を悪くする様子もない。にやりと笑い、久島を見据えた。 「何だよ。今更、お前も行きたくなった?」 「…まさか」 悪戯っぽく微笑んで言う波留に、久島は憮然とした表情になる。ついと視線を外し、俯いた。そんな彼の眼前で、波留は摘んだ封筒をぱたぱたと振ってみせる。 その子供っぽい仕草に、久島は僅かに心がささくれ立つ。むっとした表情を浮かべ、何かを言ってやろうと顔を上げた。すると、横切った視界に波留の首許が認められた。 「――…おい」 久島は不機嫌な声を上げ、右手を上げた。波留のネクタイをぐいと掴む。そのまま引っ張った。 「うわ、何だよ」 瞬間、された側は抗議の声を上げた。 首許のネクタイを突然引っ張られては、流石の波留もバランスを崩してしまう。上体をよろめかせ足許がふらつくが、数歩ステップを踏んだ後にその場に踏み留まった。 身体を安定させた後で、波留は至近距離にある久島の顔を見上げる。ネクタイを引き寄せられつつも、彼は戸惑った顔をしていた。何故こんな事をしてくるのか、良く判らなかった。 対する久島はじろりと睨み付けてくる。相変わらずネクタイを引く手から力が抜ける様子はない。不機嫌な表情を保ったまま、口を開いた。 「ネクタイはきちんと締めろ」 その指摘に、波留はきょとんとした。憮然とした久島の顔では、伏し目がちに視線が下を向いたのが判った。彼は波留の顔から首許へと視線を移動させている。 波留は久島の台詞を脳内で反芻する。合わせて久島の仕草とを総合すれば、さしもの彼も相手が言わんとする事をすぐに悟った。 「…あれ、曲がってたりする?」 小首を傾げつつ、波留は封筒を机の上に戻す。そして右手を首許へとやった。ネクタイを引かれて圧迫感を覚える辺りに指を当ててみると、人差し指に結び目が触れた。視界で確かめようと顎を引いて俯き加減になってみるが、その辺りを直に見る事は難しい。 そんな波留の視界では、久島が肩を揺らしていた。大袈裟に溜息を付いてみせている。どうやら呆れ果てているらしい。波留の手と入れ替わりに、彼の手がネクタイから離れる。手の中からするりと抜けて行った。 「ちゃんと鏡を見てやったのか?」 「見たんだけどなあ…」 久島に問われ、波留はぼやくように答える。ロッカールーム備え付けの鏡に自らの上体を写し、気を遣いつつ結んでみたはずだった。しかしいくら自分の衣服とは言え、鏡越しでは少々難しいと思った記憶は彼にもある。 「スーツを普段から着ていないから、こういう時に困るんだ」 久島は内心の呆れを一切隠そうとはしない。そして波留にしても、久島からの指摘には反論のしようがなかった。 社会人だと言うのにノーネクタイの服装を一貫して通している彼には、そのネクタイを結ぶ機会が殆どない。多少難易度が高い衣服に対する練習量が圧倒的に足りないのだから、上手く装着出来ていなくても仕方はない。その前提が間違っていない以上、咎められる事も許容しなければならなかった。 とは言え、あまり面白い話題ではないのもまた事実である。波留は憮然とした表情を浮かべ、手探りで結び目に指先を入れて力を込めた。そうやって彼は自らのネクタイを解き、首に掛けるだけの状態にした。 そんな時だった。波留の表情がふと変化する。憮然としたものが解け、何かを思い付いたような顔になった。 それからの変化は早く、みるみるうちに明るくなってゆく。彼は解けたネクタイから両手を離し、胸の前で大きく広げた。笑顔を浮かべ、その体勢のまま動こうとはしない。 「…何の真似だ」 波留の様子に、久島は怪訝そうに言う。それを受け、波留の口角が上がった。にやりと笑う。 「そこまで言うなら、手馴れてる久島が締めてくれよ」 涼しい顔で波留にそう言い放たれ、久島は唖然とする。顎が落ちるかと思った。もっともそれは彼の主観であり、彼を客観視したならばその表情は多少口が開いているばかりである。 久島が呆けたのは数秒間のみである。彼はすぐに自己を取り戻した。瞼を伏せ、首をゆっくりと横に振る。研究続きで伸びていた前髪が揺れ、目許に当たる心地がした。 そして彼は眉を寄せ、瞼を薄く開く。口許から溜息を漏らした。右手を持ち上げ、人差し指を立てる。 「…私は…――」 久島はそう口にしたが、その後が続かなかった。一旦口を閉じ、言葉を切る。閉じたままに奥歯を噛み締めると、眉に更に深い皺が刻まれた。 彼はまた首を横に振る。気を取り直した。浮かんでいたその言葉を、しっかりとした口調で相手に投げ付けた。 「私は、お前の母親か?」 「いつも紅茶淹れてやってる礼と思えばいいだろ」 この久島からの表現に、波留は全く動揺の色を見せない。まるで、自分の言動に否定される謂れはないとでも言いたげだった。 攻撃が不発に終わった久島は、黙り込む。顔を顰め、また奥歯を噛み締めた。 それから改めて口を開けば、軽い舌打ちが発せられる。そして彼は波留を見ず、俯いて言った。 「それは私から申し出る事であって、お前が言い出す事じゃない」 久島はある種の正論を突き付けている。確かに常日頃、波留が淹れてくれる紅茶には彼は感謝している。その感謝の意を示す事には不満はない。 が、それは、あくまでもされている久島から発露すべき事である。紅茶を淹れている側の波留が言い出しては、それは押し付けがましいだけだった。見返りを求めて恩義を押し付けていると解釈される行為なのだから。 「だから時間ないんだから、ぐだぐだ言ってないでさあ…」 しかし、この久島の言い分にも波留は全く怯まない。当然の要求をしているまでだとでも言わんばかりだった。 あろう事か、彼は時間的制約を提示してくる。それを訊かされて尚反論していられる程、久島は狭量ではなかった。――ここでぐだぐだ言っていてやらなかった場合、波留が遅刻するだけではないのだ。そう思えば、久島は溜息交じりに手が伸びる。波留の胸元に垂れ下がっている青色のネクタイを掴んだ。 「――…あれ」 久島にネクタイを掴まれた瞬間、ふと気付いたような声を波留は上げた。 「そう言えば…小湊さん、まだ来てないのか?」 その何気ない問い掛けに、久島の手は思わず止まる。こいつはいきなり何を言い出すのかと彼は思い、顔を上げた。波留を見据え、何かを言い掛ける。 「まだって…お前…――」 どうやら、本気で波留は彼女がここに来るものだと思っていたらしい。今の台詞から久島はそう悟った。しかし、彼自身は先程の思考実験において、その可能性は果たして高いのだろうかと疑問を呈したばかりである。 が、その前提が間違っている可能性もある。波留は別の事実を把握しており、彼女の入室があり得るものだと判断しているのかもしれない。そんな事を考えつつ、久島は一応質問してみた。 「――…彼女、ここに入室出来るパスを持っていたのか?」 「………あ」 改まって久島が訊いた時、波留は気付いたような顔をした。口をぽかんと開けたまま、固まってしまう。 そんな彼の顔に、久島も自らの顔を突き合わせた。彼もまた行動が停止してしまっている。ネクタイを掴んだまま、結ぼうともしない。その作業に、思考がまるで向かっていなかった。 やがて、波留は口を閉じた。軽く息を吸い込む。中空に目が泳いだ挙句、視線は床に至った。呟きが、その口から漏れる。 「…やばい。まずい事してるかも俺」 「全くだ!」 何処か淡々とした波留のぼやきに、久島は遂に声を荒げた。配慮無く後輩の女性職員に待ち惚けを喰らわせるとは、意外にこの年下の親友は抜けていたらしい。 久島は肩を揺らし、溜息をつく。俯きつつ、握り添えていた波留のネクタイから勢いよく手を放していた。 そして彼は、その右手を突き出す。波留の胸を小突くように押した。シャツ越しに厚い胸板の感触が伝わってきて、掌は押し留められる。しかし彼はそれに気を止めず、叫んだ。 「早く行け!」 「そうするよ」 怒鳴られた波留は肩を竦めた。机の上に置いた肩提げ鞄のベルトを掴み、肩に掛ける。 鞄の口を開いて茶封筒を叩き込むように入れ、踵を返した。靴底と床が擦れる音が響く。その勢いのまま、波留は出入り口へとダッシュを掛けた。その首許に掛けられたネクタイは解けたままで、僅かにはためいていた。 |