――久島はそこまで想像がついた。が、新たな疑問が生じてくる。
 彼はそれを口に出す。しかし、何処か躊躇いがちな口調だった。そして、どうしてそんな口調になってしまうのか、彼自身良く判らなかった。
「…何時、彼女の携帯番号を入手したんだ」
「事務の子経由」
 波留は事も無げに即答した。チケットの封筒を机の上に置き、続ける。
「チケットの件は俺が責任持って小湊さんに対応するからって伝えて、電理研に登録してる番号を教えて貰った」
 携帯電話が一般人に普及して10年近くになる。誰もが手元に携帯し、何時でも何処でも連絡を取り合う事が可能となった。
 だから、各人の携帯電話の番号をリストに控える企業も多い。自宅の固定電話と同様に、緊急連絡先として扱うのである。固定電話回線を引いていない社会人も出始めてる世の中のため、ますます携帯を連絡先に登録する企業が増えていた。特に電理研職員とは、外部に出向状態の人間が多い。そのために、何処に居ようがほぼ確実に捕まえる事が出来る携帯の登録は必須だった。
 久島も波留も電理研に自分の携帯番号を伝えている。そして立場上は未だ学生アルバイトに過ぎない小湊沙織も、一般職員と扱いは変わっていなかったらしい。だから事務も何の気後れもなく波留に小湊沙織の番号を教え、波留もそのまま連絡を入れたのだろう。
 理に適っている行動ではある。久島はそう思う。
 しかし、この波留の行動には、何処か抜け目なさを感じてしまう。今回の件にかこつけて、ちゃっかり同僚の女性職員の携帯番号を入手した――そう勘繰られても仕方のない行為なのだから。
 そして、困った事に波留にとってこの行為は全くの無自覚の賜物なのだろうと、数年来の付き合いから久島には判ってしまう。この波留に、全く他意はないはずなのだ。
 仕事相手に携帯の番号を教える行為は、利便性はどうあれプライベートと仕事の境界線上に位置する。波留はあくまでも仕事上の行為のつもりなのだろう。しかし、その針がプライベート側に振り切れてしまう女性も居るのではないか?相手に勘違いされてはどうするつもりなのだ?――久島はそんな危惧を抱く。
 そしてそれは今回に始まった話ではない。
 事務の女性職員達と給湯室にて親しげに色々話している波留の姿を、久島はたまに見掛ける。お茶の淹れ方に長けている波留に、彼女らが教えを乞うているのだ。
 波留は、彼女らからの申し出を額面通りに受け止めている。しかし、事務職員側は果たしてどうだろうか――と考えると、年上の親友としては頭痛を覚える事もある。
 また、似たような話になっていなければいいのだが――久島の脳裏に、俎上の新入職員の女性の顔がよぎろうとした。
 しかし、久島には彼女のぼんやりとした輪郭しか思い出せなかった。そして彼はそれに気付いた。つくづく興味が薄かったのだなと改めて思い至る――コンサートにも、そして件の女性達にも。
 そうやって自らの中で考えを纏めた久島は、ある意味で罪な男を改めて見やった。戻ってきたついでなのか机の上を整理している波留は、相変わらず黒いシャツにスラックスだった。
 彼が一貫して濃い色の服を選んでくるのは、研究職とはとても思えない程に筋肉が纏わりついた肉体だからである。衣服のサイズも、彼の背より若干大きめの物を選んでいる。そうしなければ胸板や太腿がきついらしい。そうやって肉体を何とか収めた上で、着痩せして見えるような服を好んで着てくるようだった。
 そんな衣服を選んでいても、波留の襟元のボタンは1個開けたままだった。開きかけた襟元に覆われる首の後ろからは、結んだ髪が伸びている。まだ20代前半と抗弁出来そうな顔立ちと相まって、彼の方が学生アルバイトと解釈されそうな印象だった。
 色々な要素を目に留めた後に、久島は口を開いた。訝しむようでもあり、咎めるようでもある口調だった。
「――…まさか、そんな格好でコンサートに出向くつもりじゃあるまいな」
「まさか」
 接頭語を捕まえ、波留は即答した。大きく身を翻らせ、久島の方に向き返る。胸に右手を当て、釈然としない表情を浮かべ、言う。
「俺、そんなに一般常識なさそうに見えるか?」
 席に着いたままの久島は、波留をちらりと見上げた。肘を立てて両手を机の上で組み、その上に顎を乗せる。そして無表情を保ち、何気ない口調で告げた。
「そんな髪型にしている時点で、君の言い分には全く説得力がない」
「酷いな」
 プロジェクトリーダーからの遠慮ない評価に、波留は憮然とした。左手を首の後ろに回し、無造作に結んだ髪を捕まえる。自分の髪だからか、見ずとも手の中に収める事が出来ていた。
 そんな彼の様子を久島は黙って見上げている。一貫して表情はないのだが、第三者には気付かれない程度に僅かに口角が上がっていた。
 久島の微細な変化を知ってか知らずか、波留は左手を下ろした。弄んでいた後ろ髪が、彼の手の中からするりと逃げてゆく。
「ロッカーにまともなスーツ置いてるよ。それに着替えなきゃいけないから、慌てて戻ってきたってのもある」
「そうか」
 溜息を伴っての弁解紛いの波留の言葉に、久島は頷いた。この男は普段の服装が社会人めいてはいないとは言え、最低限の社会人の嗜みは持ち合わせていたらしいと思い至る。
 今までにも正装すべき場所に出席する際に、波留は確かにスーツを着ていたと、記憶を辿った久島は思い出していた。
 その度に、この黒髪を後ろで結んだ男は「肩凝るなあ」とぼやいていたものだった。どんなにまともな格好をしてもその髪型の時点で台無しなのだが、少なくともドレスコードを守ろうとする素振りは見せてきていた。そしてクラシックコンサートにも、ある程度のドレスコードは存在するとは理解していたらしい。
 もっともクラシックと言えどもガラコンサート形式でなければ、余程妙な格好で行かない限りは服装には無頓着で構わない。しかし今回の場合はコンサートの格式がどうあれ、企業斡旋の席に着く以上は社交場としての意味合いが濃くなる。そうなるとやはり、スーツ程度の正装をして行くに越した事はないとの判断は、社会人として間違いではない。
「なら、早く着替えてこい。待ち人が居るんだろう?」
 言いながら久島は右手を顔の前でひらひらと振った。まるで波留を追い払うような仕草を見せる。
「ああ、そうするよ」
 波留は頷く。久島からのぞんざいな扱いにも特に気を悪くはしなかったようで、スラックスのポケットに両手を突っ込んだまま部屋の奥の扉へと進んで行った。
 扉で区切られた向こうは、ロッカールームとなっている。他の扉とは違い、身分証明のICチップによる認証は必要ない。普通にノブを握り、回せば開いていた。
 その扉に身体を滑り込ませながら、波留はふと歩みを止めていた。思い直したように久島を振り返る。扉に半ば見切れたような体勢で、彼は言う。
「――小湊さんが来たら、俺の席で待って貰っておいてくれよ」
 その台詞に久島は目を瞬かせていた。どう答えたらいいものか、瞬時に思い浮かばない。
「…判った」
 やがて久島が静かに答えたその言葉に、扉が閉まる音が被さっていた。彼の返事を聴かないまま、波留はロッカーに向かい、消えていたのだった。
 その態度に久島は思わず鼻白む。が、自分がすぐに答えを寄越せなかったのが悪いとすぐに思い直した。久島自身が指摘したように、波留には待ち人が居るのだ。そんな彼を呼び止めて時間を浪費させておく訳にはいかない。
 脳内で独りごちていた彼の耳元で、モニタが微かに唸る音を出した。そちらにちらりと視線を向けると、モニタの電源が切れている。
 暫く操作していなかった事でスタンバイモードに切り替わったらしい。上から節電を推奨されているために切り替えの設定時間は短くされているとは言え、こうして形に表されると作業を中断していた時間は意外に長かったのかと久島は思う。
 久島は右手をキーボートの上に掲げ、キーを叩こうとした。そうする事でスタンバイは解除され、再びデータ閲覧の作業へと戻れるだろう。
 しかし、彼の手は中空で止まっていた。何も映されていない暗い液晶を無言で眺めるに留まる。
 やがて、久島はゆっくりと席を立った。キャスター式の椅子は、自然に後ろへと引かれ、彼の邪魔をしない。
 そのまま彼は自らの席を離れ、室内の通路を歩いて波留の机へと至った。その上は先程、主の手で片付けられており、書類や書籍はきちんと並べられている。
 波留の机には、電理研所有のステッカーが貼られたノートパソコンが中央に鎮座しているだけだった。何時の間にかにパソコン脇から伸びた接続コードが机上のマルチタップに差し込まれ、パソコンの充電ランプが点灯している。
 閉じられたノートパソコンの上には茶封筒が更に置かれている。その口からはチケットの端が覗いている。印刷のせいなのかそれとも用紙そのものの色なのか、若干赤みかかった印象があった。
 久島はその封筒を手に取る。左手に持った上で右手の人差し指を覗くチケットの一端に押し当てていた。親指とで摘み、引き上げようとする。
 が、彼はそれも止めていた。
 これは波留が購入したチケットである。自分のものではない以上、勝手に扱ってはならない――久島の心中に、そんな自重が働いたのが一因である。
 その一方で、久島自身は、それのみが自制の理由ではないと悟っていた。しかし、その正体はまるで知れない。
 ちらりと視線を巡らせると、部屋の出入り口の扉に行き当たる。その扉を開くには、流石に認証が必要だった。
 ――立場上はアルバイトに過ぎない彼女に、この部署への通過許可は出されているのだろうか。久島はふと思った。
 今までに、小湊沙織と言う名の女性が自分達の仕事を手伝いに来た事はない。だから久島は彼女への通行許可の有無は全く把握していなかった。仮に入って来られないのならば、波留がロビーにでも迎えに行かなければならないのだろうかと思う。
 ――今もロビーに居るのならば、このチケットを渡しに行ってやろうか。
 不意に久島の心中に、そんな想いがよぎった。
 そうすれば、彼女は波留を待つ必要はない。時間に余裕を持って、独りで会場に出向いて、同僚達と合流すればいい。これは、とても理に適った考えだろう――。
 この論理に納得し掛けた瞬間、別の論理が彼の心に出現する。それは無意識のうちに発生した考えだった。研究者たる彼は、自らの考えを纏める際には一旦立ち止まってそこに反証を加えるのが常だった。それが今回も発動しただけである。
 ――まだ電理研に正式に所属していない彼女を、独りで歩き回らせるのは酷ではないか?彼女の出身が何処か知らないが、仮にこの博多に土地勘が一切ないのならば、案内なしでは会場に辿り着けないかもしれない。
 ならば、少々遅れてでも波留に伴わせるべきだろう。波留はあれでしっかりしている。ここで私と会話したのだから、開演時間にはまだ余裕があったのだろう。
 久島の脳裏にふたつの相反する考えが展開された時間は、2、3分だった。その短い時間において、彼は後者が望ましいとの結論までを導き出していた。結果的に波留の判断を支持した格好になっている。
 ならば――何故、前者のような余計な考えを抱いてしまったのだろう?
 久島は自らに疑問を抱く。そして、やはりその答えを導き出せそうにない。どうも、思考のペースが狂っていた。その原因は、良く判らない。

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