コンサートとは、一般的に夕方から夜にかけて開催されるイベントである。そのジャンルがクラシックとなると若年層の学生向けに若干開催時間が早まる事もあるが、今回のコンサートは通常の夜の時間帯を選んでいた。 チケット斡旋を受けた電理研職員達は、定時で仕事を終えてゆく。とは言え大半の職員にとっては、このコンサートは仕事の延長線上にある。せいぜいクラシック音楽に備わっていると言われるリラックス効果を期待するとしよう――そんな風に消極的な楽しみ方を試みようとする人間が多数派だった。 各々の判断で残業し泊まり込む事も多いこのオフィス内も、今晩ばかりは閑散とすると思われた。それでも正面玄関に位置する詰所には相変わらず警備員が配置され、24時間体制で準政府機関の防犯に務めている。そのため、敷地内は完全なる無人にはならない。 そんな中、一向に席を立とうとしない職員も只独り存在している。ある海洋プロジェクトのリーダーを務める久島永一朗その人だった。 彼は今回のチケット斡旋から見事逃げ切った。そして今晩の彼は当然のように、静かなオフィスに居残って残業するつもりだった。これを機会に彼はデータの整理を行い、それを基づいた今後の方針をレポートに挙げようと心に決めている。 久島は明確な地位と言う形は得てはいないが、同僚達を先導する立場にあるプロジェクトリーダーである。そして彼のチームに所属する研究職には年上の人間が多い。年下の波留はむしろ少数派に属していた。それ故に、久島は若干の気負いめいたものを抱いている。 そんな同僚達が口々に久島に挨拶を残し、出てゆく。残る久島はモニタの画面から僅かに顔を上げてそれらに応えるが、それだけだった。皆、白衣を脱いだ下に来ているスーツが今日ばかりは若干小奇麗だったとか、彼はその程度の印象しか受けていない。同僚達がこれからどんな体験をするのか、自分には全く関係ないと思っていたからだ。 演奏会が本当に息抜きになるなら、それを楽しめばいい。周りを電理研やその他付き合いのある企業の有力者で固められてくつろげないのならば、それはそれで体のいい売り込みの機会になり得るだろう。 ――その時間を無為に浪費しないなら、それでいいのではないかと彼は思う。もっとも、何も考えないで済む時間の確保こそが休息に直結するとも知っている。 そんな考えを脳の片隅に置いたまま、貸与されているノートパソコンの画面に久島が向かい合っていた時だった。 「――あれ、久島。まだ残ってるのか」 彼の向こう側からそんな声が届いてきた。 ある程度の距離を保った辺りから聴こえてきていたが、おそらくは部屋の入口から室内へと声を掛けてきたのだろうと久島には目測は付いた。そして顔を上げて視線を移動させれば、自らの推測に実証を得ている。 問題は、そんな風に声を掛けてくる人間がまだこの電理研内に残っていたと言う事実だった。更にはその人物の今後の予定を久島はしっかりと把握している。半ば自分を巻き込んで設定された予定なのだから、他人事とは思えなかった。 「…波留。君は何故ここに居る?」 「出先からようやく戻れてさ」 久島の問いに応えつつ、波留はオフィス内へと歩みを進めてくる。彼は外の暖かな春の陽気をそのまま含ませてきたようで、クーラーが良く効いた室内に微かに陽の匂いが漂った。 外から戻って来たばかりのため、今の波留は白衣を羽織っていない。普段通りの黒シャツとスラックスと言う彼の服装があからさまに表れており、いよいよこのオフィスにそぐわない。首許から下がる身分証明が、かろうじて彼の所属を表していた。 電理研が現在抱えている大きなプロジェクトとは海洋研究である。それ故に外部組織とも綿密な連絡を取り合っている現状だった。 職員達も、自らのオフィスにて仕事をしているばかりではない。むしろオフィスから出たら最後、全く戻ってこない研究職も多かった。入退出履歴をチェックされたら、営業職と勘違いされそうな状態の人間ばかりである。 今日の波留も、その例に当て嵌まる。彼は朝にオフィスに顔を出してすぐ、ノートパソコンと各種機材を携えて出て行ってしまった。オフィスでの滞在時間は10分にも満たず、丁度その時間帯に久島は席を外していた。だからふたりは今日初めて顔を合わせた格好になる。 波留は持ち歩いてきた古ぼけたノートパソコンを自らの机の上に置く。顔に浮かんだ笑みからは疲れを感じさせるものがあったが、それでも爽やかさは掻き消えていない。 「心配してくれなくても大丈夫だよ」 そんな笑みを浮かべたまま、波留はそんな事を言い出していた。それに久島は無言のまま、訝しげな顔をする。 「出先から、小湊さんには連絡取ったからさ」 「…は?」 一体何を言われたのか。久島には一瞬理解出来なかった。何故ここで、その人名が出てくるのか――年上の親友には波留の意図が掴めない。 プロジェクトリーダーである久島の席は、オフィスの奥に位置している。対する波留の席は机を数個隔てた先にある。所属人員が10人前後の部屋のため、そこまで広くもない。だからふたりの距離は大したものでもなく、久島の席からも相手の様子が見て取れる。 久島は開いたノートパソコンから僅かに顔を上げる。波留の方を伺った。 無骨な液晶モニタの向こうでは、黒髪の青年が机の引き出しを開けていた。政府機関の設備らしく少々ガタが来ているスチール製の机の引き出しは、滑らかには開かない。それでも半ばまで開いたそこに、手を突っ込んでいた。 紙が擦れる音にペンが転がる音など、多様な音がクーラーの稼働音に混じって聞こえてくる。そんな中、波留は目的の物を引っ張り出した。 それは、何の変哲もない茶封筒である。定形郵便サイズのそれを、波留は軽くはたいた。その表面に特に汚れや皺は見当たらないが、おそらくは気分からの行動だろう。何せ、無造作に突っ込んだ挙句に乱雑に引き出したのだから。 封筒の口は閉じられていない。波留は封筒の側面を指で押すようにして持ち、その口を開かせた。目を細めて中に収まっている物を確認する。 「俺がチケット持ってるからさ。彼女とはここで落ち合って、一緒に行かなきゃならないんだ」 久島の方からは流石に波留の手元までは目視出来ないのだが、その台詞の内容から封筒の中身が理解出来た。 そして封筒の口から実際に覗いているものは、2枚の長方形の紙だった。覗いた縁からも、何かが印刷されている様子は伺える。良くあるコンビニやプレイガイドでの発券ではなく、主催者側が準備したチケットだった。 久島としては今まで意識の外に置いていたそのコンサートだったが、波留の言動を推し量るためにも以前の騒動を思い起こしてみる。 ――そう言えば、チケットは当日に事務が準備して、波留に手渡すと言っていたか――。 そして波留は小湊沙織と言う新入職員にチケットを1枚斡旋したにせよ、形式上は彼が2枚購入した手筈になっている。だから事務職は彼に2枚手渡す他ない。 融通が利かないのは政府機関の常であるし、これは半ばイレギュラーな手配なのだ。事務職の女性職員に無理を強いる行為は、波留が好まなかった。 だから波留は、当日入手したチケットを即日で小湊沙織当人に手渡さなくてはならなかった。しかし彼は朝からすぐに現場に出向いてしまう予定になっていた。そのために事務職員にチケットを受け取るのが精一杯だったのだろう。 |