それで、終わりだった。 小湊沙織に久島を面通しした時点で、会話は急速に収束へと向かう。彼女は波留とも軽い挨拶を交わしただけで、廊下の向こうへと歩いて行った。 無論、波留は彼女にチケットの引き渡しの件を告げている。曰く「事務の子から当日貰えるみたいです。電理研の皆で職場から出向くようですから、着替え忘れないで下さいね」との事だった。 久島はぼんやりと黒髪の女性の背中を見送っていた。歳若いがこの組織から青田買いされた時点で、実力は確かなのだろう。同時に、社会で何の成果も挙げていない学生をそのまま獲得してくるのだから、電理研の地位もある程度は落ち着いて来ているのだろうと推測はつく。それは電理研設立当初から所属している自分達がもたらした成果なのだろうと彼は思う。 ――たとえ学業は優秀でも、果たして実社会で何処まで使いものになるのやら――そんな皮肉めいた想いもまた、彼の脳裏にはよぎっている。そして「新人」に対してそんな風に思う事自体が、歳を取ると言う事なのかとも感じ入る。 やがて、彼は傍らの同僚を見やった。黒髪を後ろで結んだやけに爽やかな男がそこに居る。白衣を羽織っていても、まともな社会人にはまるで見えない。確かに初対面なら普通面食らう容貌だろうと、彼は小湊沙織に若干同情の念を禁じ得ない。 とは言え、この男も国家による青田買いを受けた「天才」のひとりであると、久島は知っていた。 この波留は自分とは違って、高校時代から目を掛けられ奨学金を与えてスキップを繰り返させ、挙句には国外で修行を積ませる事までもを国は容認している。そこまでさせておいて、電理研設立に合わせて日本へと呼び戻したのだから、この男の双肩には国から相当の期待が掛けられているのだろう。 高校から大学に掛けて進路に迷った挙句にこの職場に行き着いた自分とは、彼らは明らかに違う人間達だ。久島はそう思った。 ――久島自身はそんな風に卑下してしまうのだが、一般的に見れば、彼は充分に現場叩き上げの優秀な人材である。そしてその手の人材はこの職場に有り触れていた。そのように比較対象のハードルが高いからこそ、自らの優秀さを掴みかねる人間も居る。しかし、一部のエリートにありがちな選民思想に凝り固まるよりはマシではあった。 そんな想いは、今は心の隅に置いておく。久島は波留をちらりと見て、口を開いた。 「――…私はお前の事を誤解していたようだ」 「何だよ、それ」 言われた波留は不思議そうな声を上げていた。結論から先に言われても、彼には全く見当がつかなかった。久島が無自覚に良くやる言い回しと言われればその通りなのだが、波留にはそれが判っていてもその論理の先が推測出来ない事も多い。 久島は怪訝そうな表情を浮かべている波留を見ている。その口許が動いた。結論に至る彼なりの根拠を、言い募る。 「あのチケットを2枚購入したのを見て、てっきりお前は私に1枚押し付けてくるものかと思っていた」 「…ああ――」 言われた波留は頷いていた。彼の脳裏には、朝方のやり取りが再び回想されていた。そしてそれは久島の脳内でも同様である。 「――俺、最初からそんな事はしないつもりだったよ」 親しい相手に抱かれていた誤解を告白されても、特に気を悪くする様子もない。波留は普通の口調でそう言っていた。 「珍しい事もあるものだ。宗旨替えか?」 波留のその態度にかこつけてか、久島は微妙な言葉を敢えて用いてくる。何せ波留は今まで久島を色々な場所へと連れ出していたのだ。 独立行政法人とは言え一般組織の常として、電理研でのチケット斡旋は何もこのコンサートに始まった話ではない。それを久島が面倒臭がるのもまた常であったが、そんな彼を波留は半ば強引に誘い続けている。結果、久島は野球やサッカーの観戦をここ福岡にて初めて体験して来た。美術館や博物館での展示にも、共に出向いた経験もある。 それらのどんなイベントにも、波留自身は特別な興味を抱いていた節はない。「折角の機会だから行ってみよう」と、斡旋チケットを買っていただけだった。 そして久島は口では文句を言いつつも、結局は社会的な付き合いを選ぶ。確かに彼はこの手の付き合いは馬鹿馬鹿しいと思っているのだが、それが円滑に物事を運ぶコツである事も知っていた。 普段はそうなのだ。だから波留はそれを踏襲し、今回も強引に拉致ってでもこのコンサートに連れて行くものだと、久島は危惧していたのだった。しかし、現実は大幅に異なっていた。 「久島、本気で嫌がってたっぽいからさ。俺、そこまで嫌なら無理強いはしないよ」 「…そう見えたのか」 意外にも真面目な波留の態度に、久島は黙り込む。彼にはそんな感想を漏らす事しか出来なかった。 自分の不機嫌さが第三者に気付かれる程のレベルであった事と、それを読み取った波留がこうして気を遣ってくれている事の両方が、久島にとっては意外だった。そしてその両方の事実が、彼を気恥ずかしくさせる。これではまるで、駄々を捏ねた子供ではないか――。 「普通なら付き合いとしてチケット買って参加するだろ?この手のイベントにも。なのに、今回は事務の子困らせてまで拒否し続けるんだから、余程根深いものがあるんだろうなって思った」 口許に苦笑を浮かべて前髪を掻き上げつつ、波留はそう言った。自らの判断の根拠を述べた事になる。そしてそれは確実に久島の心中を言い当てていた。全く、言葉がない。 「――クラシック、そんなに嫌いか?」 率直な台詞で改めて訊かれた久島は、やはり無言だった。顔には憮然とした表情を湛えている。あからさまに不機嫌そうな態度で、最早それを隠そうとはしない。 「…まあ、趣味の好悪はどうしようもないからな。俺だって門外漢だし、無理には勧めない。そもそも強制参加って建前でもないんだから、出席しなくても許されるだろ」 その波留の台詞が全てだった。久島の拘りと今回のイベントとの擦り合わせを端的に纏めていた。 組織が所属職員のプライベートをも拘束するのは、日本社会の悪しき慣習だった。しかし、その時代は最早終わりを告げている。ならば「建前」と「正論」に則って動いても、文句を付けられる筋合いはないはずだった。 ましてやその回避方法は、この親友が提示してくれているのだ。無駄になりそうだった1枚のチケットを、彼は真に欲している人間へと横流しした。そしてその「横流し」の相手は、同じ電理研の人間である。誰にも咎められる謂れはない。 ともかく波留と久島の間で、この話題はそれで終わりだった。 「何故クラシックが嫌いなのか」――そこに突っ込んで来なかった親友に、久島は感謝した。果たして気を遣われたからなのか、それとも好悪の感情を問い質しても改善する訳がないと諦められたからなのかは、判らなかったにせよ。 |