「でも、良くあなたは入手出来たわね」
 ある種の妙な感情と、そこからもたらされた妙な会話は落ち着いたらしい。小湊沙織は顔を上げ、波留を見やった。そして感想めいたものを漏らす。
 実は、このコンサートのチケットは既に完売していた。発売と同時に完売した訳ではないのだが、確実に席は埋まって行っていたらしい。そしてクラシックコンサートの情報とは他のジャンルのライブと比較して著しく少ない。彼女が情報をキャッチした時点では、既に入手方法がなかったと言う事になる。少なくとも、彼女が知り得た手段としては。
「電理研内でチケット売ってましたよ。協賛ですから」
 両者が眺めるポスターには、確かにそう表記されている。いくらプラチナチケットと言えども、スポンサー関係には一定数配られるものである。スポンサー相手でも配布ではなく販売だから、まだ良心的なのかもしれない。
 そして一般発売と斡旋とでは、評価が著しく乖離する事もまた多いのが事実である。半ば無理矢理斡旋された電理研職員には、それがある程度の人気チケットだった現状は信じ難い代物だろう。
「小湊さんも、事務に頼めば斡旋して貰えたかもしれないですね」
「私、まだ正式には入社していないから…」
「そうなると引き落としは無理ですね。俺が調達しておいて良かったようです」
 苦笑いを浮かべて言う小湊沙織の台詞を、波留が引き継ぐように言った。
 現時点は2008年の3月である。大学を卒業したばかりの小湊沙織の正式入社は明けて4月の予定となっていた。
 しかし、在学中に早々に内定を獲得した彼女は、その時点から足繁く電理研に通っていた。それ以降彼女は、アルバイト契約を交わした状態で雑用めいた研究に従事している。潜在的な実力と未来ある研究者の青田買い兼囲い込みと、そんな研究者を遊ばせておくのは勿体無いとの国家機関の思惑がそこにある。
 もっとも正式入社はまだ先なのだから、言葉は悪いが何時逃げられてもいいように研究の機密には触れさせてはいない。これは電理研に限らず、研究職の新人には有り触れた待遇だった。
「あなたは、大丈夫だったの?」
「ええ」
 問われた波留は、明快に頷いていた。その態度に、小湊沙織は僅かに首を傾げた。何か引っかかりを覚えたらしい。
「――…そちらの方は?」
「え?」
 波留はそう話を振られ、小湊沙織の視線を辿る。その先に居る久島に行き着いた。彼はその存在にようやく気付いたような顔を見せる。
 それは、唐突に同じ舞台に乗せられた久島も同様である。年上の同僚は不意に話を向けられた事に気付き、顔を上げた。
「ああ…久島永一朗と言う奴です。俺と同じ研究を抱えている同僚に当たります」
 波留からの説明口調の紹介を聴き流しつつ、久島は彼らふたりから距離を取ったまま軽い会釈を寄越した。特に口を挟むような箇所はない。誤解を生む紹介ではないように彼には思えた。
 すると彼女からも会釈が返される。お互いに無言のままである。波留との間とは違い、饒舌な会話はない。
 顔を俯かせたまま、久島は微妙な感情を抱えていた。何かが違うような気がした。しかしそれが何かは、良く判らなかった。そして判らないとは言えども、彼にそれを突き詰めて考える気も起こらなかった。
「…そうなんだ…――」
 呟くような小湊沙織の声は怪訝そうなものになっている。自分は何かまた思い違いをしているのではないか?――彼女の心中ではそんな想いが渦巻いているような印象が外からも見受けられた。

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