「――で、何の御用かしら?」 一応の初対面同士の自己紹介が一段落した時点で、小湊沙織は端的にそう質問してくる。傍らの久島も抱いているその疑問を、彼女は波留に対して直球でぶつけてきた。 彼女の表情は柔らかく、不快に思っている様子は見られない。波留を咎めているのではなく、只単に言葉を繕わずに心中の疑問をそのまま投げ掛けてきているだけなのだろう。 波留も彼女の直接的な態度を不快には思っていない様子である。身分証を胸ポケットに戻しつつ、言う。 「小湊さん、今度のコンサートのチケット持ってないでしょう?」 そう言い終わった後に、波留は傍らの壁を掌で指した。そこにはポスターが貼られている。ある音大メンバーによる楽団の写真が一面に印刷され、大きな文字で楽団の名称とその演奏会の告知が上書きされている。 学生楽団らしくと表現すべきなのか、ポスターにはあまりデザインには気を遣われていない。おそらくはまともなデザイナーを通していないのだろう。クラシックの楽団の割に無骨な印象を漂わせていた。 久島も釣られて遠目にポスターを眺めやる。彼の眉間には皺が刻まれていた。朝のあの出来事が、脳裏に蘇る。次いで、あの顛末に彼が危惧した未来がよぎっていった。 「…ええ」 そんな遠くの男の事など意識の隅にも入れていない小湊沙織は、波留が指し示す同じポスターを眺め、頷いた。しかし彼女は唐突に振られた話題に付いていけない。一体着地点は何処に至るのか、それを見定めようとした。 そこに、波留の声が届く。 「小湊さんのチケットなら、俺が買っておきました」 「え?」 波留の言葉に、小湊沙織の口から怪訝そうに短い声が漏れた。彼女にとっては本気で予想外だったようで、表情にも驚きの色が垣間見えている。 そんな視線を受け止めた波留は優しげに微笑む。胸に手を当てて話し掛けた。 「小湊さん、このコンサートに行きたかったんでしょう?」 波留の言葉に、彼女は口篭もる。それは核心を射抜いていると、目に見えて判る態度だった。少なくとも、彼らの様子を傍らから見守る羽目に陥っている久島にはそう思えた。 「――…どうして判るの?」 若干の間の後。話を投げ掛けられた女性は胸元でやんわりと拳を作り、若干身を乗り出して問い返していた。 実は彼女の心中は、やはり波留の指摘する通りである。しかし何故彼がそれを見透かして来ているのか、この女性研究者には全く判らなかった。 何せ自分は今まで、この職場でも歳若く見える男性とは言葉すら交わしていなかったはずである。電理研内での公開プロフィールはあくまでも研究類が主題であり、プライベートな部類は履歴書通りの当たり障りない事柄しか載せていないはずだった。 波留は相変わらず態度を崩さない。ちらりと背後のポスターに視線を寄越し、言った。 「この前ここで、あなたがこのポスターを寂しそうに眺めていたのを見ました」 その言葉に、小湊沙織は瞼を瞬かせた。呆気に取られたような表情になる。 そしてしばし沈黙する。波留の言葉が続くのを待った。しかし波留は微笑むのみで、新たな言葉を費やしてこない。 「…それだけ?」 「ええ」 業を煮やした小湊沙織が改めて問うと、波留に鷹揚に頷かれる。彼女はそれに首を傾げた。 「その程度の事で、あなたはチケットを買ってくれたの?」 「俺には"その程度"って態度には見えませんでした」 言いつつ波留は拳を作り、軽くポスターの壁面を叩いた。丁度楽団の名称がある辺りを小突いた格好になる。 「小湊さん、彼らに興味があるんでしょう?もしかしたら興味は曲目かもしれないけど…俺はクラシック全然判らないから。その辺は御容赦下さい」 台詞の最後の方で、波留は小さく頭を下げた。会釈程度だったが、彼なりの謝意を見せたつもりらしい。 「…ええ」 何処か圧倒された心地で、小湊沙織は頷いていた。会話も交わしていないのに確実に相手の意を汲んでくるこの人物は一体何なのだろうと思う。一度目にした名前を顔を覚えている辺り、観察力に優れていると言う奴なのだろうか? 彼女は顔を上げる。青年の笑顔が目の前にあった。初めてまともにそれを見た感がする。途端、顔に赤みが射す自覚があった。 その自覚に、彼女は誤魔化すように俯く。そして呟くような言葉が口元から漏れてきた。 「彼らの殆どはそれぞれ、卒業後に国内外のプロ楽団への就職が決まっているのよ。それ程の腕前の持ち主達が、これはおそらく最後に集まる機会なの」 「それって凄い事なんでしょうね」 波留の感慨深そうな声が彼女の耳に届く。それはクラシックに興味を持たない人間が、それを腐すでもなく気を遣ってきているような、一般社会において良く遭遇する手合いの感想だった。 それに彼女の感情が刺激された。その直前、若干の動揺を抱えていた事も重なったかもしれない。 「そんなコンサートに行けたあなたも、きっと語り草に出来ると思うわ」 「じゃあ一生、話のネタにさせて貰います」 「クラシックに興味ない人でも名前位は知ってるレベルに育つ人が、この中には必ず居るから」 俯いたままぼそぼそと言い募る新入女性職員と、その意を知ってか知らずか爽やかに会話を交わしてくる男。その光景を久島は、呆れた顔で眺めていた。 彼としてはこのやり取りには何らかの突っ込みを入れたい感情に駆られるのだが、だからと言って第三者の姿勢を崩してまでとは思わなかった。波留からも互いを紹介しようとはして来ないのだから、彼には敢えて介入する気は起こらない。彼は、面倒事には巻き込まれたくはなかった。 |