電理研とは研究機関ではあるが、その研究分野は屋外となる職員が多い。そのため、1日中部署に残っている人間は殆ど居ない。日中なのに所内を歩く人間が少ないのは、そのためである。 だからこそ、久島と波留が廊下にて多少やり合っていようとも、興味を惹かれる通行人は居なかった。もっとも彼らは人が大勢居るような場所でも全く構わずこの手の言い争いを行うだろうが、それはまた別の話である。 久島の眼前では波留が頭を掻いていた。口を噤み俯き、言葉に迷っている様子である。表立って強く主張してはいないが、その主張を頑として曲げようとしない。実に波留らしい態度だと久島は思うのだが、その主張が自分に向けられしかも対立しているとなると煩わしさが先に立つ。 そんな時、波留がふと視線を上向かせた。しかし久島の方を見てはいない。彼の肩越しの向こう側に、瞳の焦点が合っていた。 その変化に久島は気付き、怪訝そうな表情を浮かべる。しかしその頃には波留は爽やかな笑みへと表情を変化させていた。そして片手を上げ、爽やかな声を向けた。 「――小湊さん!」 波留が声を掛けた方には、女性が足を止めていた。背中に届く黒髪を伸ばしてはいるが、彼女は白衣を羽織っている。事務職員達とは一線を画している格好であり、その服装が示す通りに彼女は数少ない女性研究職だった。 彼女は一旦足を止めて首を巡らせ、周辺を伺った。しかし、それ以上の事はしない。再び歩みを再開しようとしていた。まさか自分が呼ばれたとは思わなかったのだろう。 「小湊沙織さん!」 女性が歩き始めたのを見た波留は、また呼び掛けていた。今度はフルネームを口に出している。こうなるとなかなか勘違いはしないものである。その女性は足を止め、呼び止めてきた男の方を見た。その表情には多少の驚きが宿っている。 波留から呼び止められた女性までは多少距離がある。波留は小走りに彼女の元へと向かった。久島の脇を軽やかにすり抜けてゆく。 それを当の久島は無言のままに横目で見送った。あまりの唐突な展開に、付いていけていない。何せ波留と来たら、さっきまで目の前の男と議論を交わしていたと思ったら、さっさと別人へと話しかけているのだから。 波留が目の前に立った時、その女性は怪訝そうな表情を浮かべていた。伺うような視線を向ける。 「――…あの…どなた?」 話しかけた相手にある種の警戒態勢を取られても、波留は笑みを絶やさない。そんな態度を向けられようともその事情を理解していたなら、彼は全く意に介さない性格だった。 だから、人当たりのよい笑顔を浮かべたまま、彼は女性へと右手を差し出した。 「波留真理です。この春から、あなたの同僚になる」 「…ああ…――」 それは自己紹介と評するにはあまりにも短い代物だった。相手に対して最低限な情報しか渡していない。最適化に過ぎるかもしれない。 小湊沙織と言うその女性は、波留の笑顔と差し出された右手とを交互に見ていた。自らの右手は若干中空に泳いでおり、戸惑いの様子は消えていない。 幾度目かの視線の上下の際、波留の視線と彼女のそれが交錯した。波留は相変わらず笑みを絶やさず、手を差し伸べたままである。 彼女は、広い掌に視線を落とした。そして自らもようやく顔を綻ばせる。ぎこちない変化だったため、心からの笑顔ではなかったかもしれない。 「宜しくね」 短い言葉を発し、小湊沙織は波留と握手する。顔の横に伸びきっていた髪が揺れ、ふんわりと彼女の頬に掛かった。視界が遮られるが、当人にそれを気にする様子はない。 「私の名前、良く御存知ね」 互いの手を重ねたまま、彼女は波留にそう訊いてきた。すると波留は明快な答えを返す。 「身分証に書いてあります」 その答えに、思わず小湊沙織は視線を落とした。首から胸元に提げられている身分証を見やる。波留の指摘の通り、そこには所持者の名前と顔写真が表示されていた。 これはこの職場に通う人間には必ず発行される身分証明であり、各セクションへの通行許可証を兼ねている。警備員と内蔵されたICチップと、区画によってアナログとデジタルの証明が使い分けられている。そうやって彼ら職員は国家機密の一端に触れて活用し、そしてその秘密の保持を努めていた。 波留は自然な仕草で握手の手を解く。そして胸元のポケットに収まっていた自らの身分証を摘み上げた。 掌サイズの長方形が現れると、そこに小さく添付された顔写真が露わになる。その表情は身分証明に違わず真面目腐った無表情であり、現実に提示されている笑顔とは対照的だった。何時撮影したものなのか、後ろ髪もまだ伸び切っていない。 その身分証明を眺めつつも、小湊沙織は自らの証明に手を伸ばしていた。おそらくは無自覚に、彼女はそれを右手で確かめるように触れる。 「それに、俺って人の名前と顔とを一致させるのが得意でして」 そんな彼女に、波留の声は相変わらず朗らかに届いてくる。顔を上げると、何の衒いもない笑顔がそこにあった。 ――つまりは波留真理と言う人物は、一度見た顔と名前は忘れない記憶力を持っている。そこに何ら特別な要素はない。彼女は内心、そう解釈していた。 今までに言葉を交わした覚えはないが、きっと入社用のプロフィールなどをチェックしているのだろう。同僚になる相手について、それ位の興味は持って然るべきだろう。 この職場内でも一般領域で公開しているプロフィールを同僚にチェックされるのは当然であり、不快に思うのはお門違いだ。何を専門としてこの電理研入りしているのか。同じ職場で共同研究を成す以上、それを把握しておくに越した事はないのだから。 そんな風に思考を纏めた小湊佐織は微笑んだ。眼前の男に向けて態度を柔らかくした。 彼女の中でも色々と納得したのだろう。それを、傍から見ていて第三者状態に陥っている久島も把握する。 が、彼としては何処か鼻白んだ感がする。自分はすっかり置いて行かれてしまっている。一体彼女は何なのだろう、そして波留は彼女に一体何をしたいのだろうと怪訝に思った。 |