朝からそんな一幕が勃発した日だったが、数時間が経過した昼の時間帯には波留と久島は並んで廊下を歩いている。白衣姿で手には書類を抱えた彼らは、その格好に似合う研究者としての会話を交わしていた。 「――だからさ、あのデータおかしいって」 波留は釈然としない表情で、右手を挙げて久島へと訴える。彼らが抱える共同研究に対し、彼は異論を提示しようとしていた。 「そんな事を言われてもな。正規の手順を踏んで観測したデータに根拠なく文句を付けられても困る」 対する久島は瞼を伏せ、取り合わない。彼としては、波留の論理に与する訳にはいかなかった。その理由は、後に述べる。 「反証したいのならば、君は根拠を提示するべきだ。君の物言いは現地観測班への言い掛かりに他ならない」 「そう言われてもなあ…」 先の久島の同じ台詞を口の中で呟きつつ、波留は右手を頭へとやった。後ろ髪を結んでいる事を全く気にせず、彼はそこを掻き回す。わしゃわしゃと黒髪が解け、彼の指へと絡み付いた。 「…なあ…」 指の動きが止まる。歩みも止めた波留は、次の言葉を口に出した。 「いっそ、俺が潜っちゃ駄目なのかな」 先行した久島は、背後からの声に足を止める。眼球のみを動かし、その背後を見やった。溜息が漏れる。 「その行為に一体何の意味が?君が潜ろうとも、それが同一海域で、使用する機材も同一ならば、もたらされるデータも同一となる」 波留は黙り込んだ。研究職としての彼は、久島の意見に頷く他ない。しかしその一方で、何かが違うとも思っている。理論的であるはずの久島の意見が、自分にはしっくりこない。波留はこの違和感を解消したかった。 久島は再び歩き始める。黙り込んだ事で、背後の親友は納得したのだと認識したらしい。果たして親友は彼の背中に従い、淡々とした歩みを進めてくる。本格的に追いつこうとはしていないらしく、数歩分の開きを保ったままだった。 そんな久島に、背後からの呟きが届いた。 「――…俺…ダイバーチームに異動願い出そうかなあ…」 その声に、久島は足を止めた。そこまでするかと思う。振り向かないまま、諭すような声で語った。 「君は研究職として、ここに呼ばれているんだ。そんな希望が受理される訳がない」 久島は常識的な台詞で攻めていた。彼らは国家プロジェクトに携わる人材としてあちこちから集められているのである。それぞれの専門分野を求められている以上、それを変更したいとの物言いが通用する訳がなかった。 仮に変更希望を出して阻止されないにせよ、「だったらうちを辞めてくれ」と言われるだけだろう。求めていない人材を置いておくだけの余裕はないはずだった。私企業ならともかく、電理研とは独立行政法人である。国民からの厳しい視線が注がれる組織なのだから、必要ない隙は作らないに限る。 確かに波留真理と言う人物は、フリーダイビング競技において世界レベルの選手である。久島はその事実を把握している。しかしそれはあくまでも趣味の世界の話だった。波留は海洋学者としてこの電理研に就職しているのだ。 「でも俺が納得するためにはそれしかないんだよなあ…」 それでも波留は首を捻っている。尚もぶつぶつと言葉を重ねようとしていた。 「それ以上言うな」 そう言いつつ、久島は振り返った。右手を上げ、掌を波留へと向け、突き付ける。その表情は厳しかった。 「お前は、観測班を何処まで侮辱すれば気が済む?」 「…そんな訳じゃないよ」 久島の言い様に、波留は怯む。波留としては、まさかそんな解釈をされるとは思ってもみなかったらしい。しかし久島にしてみたら、そう言われたも同然だった。 「同じ事だろう?お前が言っているのは、自分の理論の証明したいのに現実のデータが一致しないと嘆いているだけだ。それは危険な考えだ。持論を正当化するために、データの改竄に手を染めるつもりか?」 語る久島は表情も口調も厳しかった。彼が述べたその観点は、研究者としては持ってはならないものだったからだ。 ――あくまでも第三者が納得出来る客観データで理論を構築しなければならない。持論に邁進し研究する事は必ずしも悪い事ではなくむしろそれが研究への原動力となるものだが、それも限度がある。現実に観測されたデータと持論が噛み合わなければ、いずれ諦めなければならない。 その研究も無意味とは落ちない。現実に理論を方向修正すればいいだけなのだから。 現実を受け入れずに「間違っているのはデータの方だ」と思い込む研究者が、歴史上後を絶たないのもまた事実である。久島としては、この親友もその道へと片足を突っ込んでいるのかと危惧していた。もっと柔軟な考えの持ち主だったはずだが、のめり込んだ研究とは明晰な頭脳すら狂わせるものなのだろうか――? 「ああもう…改竄じゃなくてさ…絶対おかしいはずなんだって…」 当の波留は頭をがしがしと掻く。彼はそこまで大袈裟には考えていない。どうも会話が噛み合わないと感じるのみだった。久島はそんな彼に改めて質問した。 「だから、その根拠は何だと訊いている」 久島の問いに、波留はきょとんとした表情を浮かべた。口を噤み、右手の人差し指で顎を掻いた。上目遣いで思考を纏めようとしている。 やがて、口を開いた。 「――…勘?」 語尾が上がった所から、波留自身でも納得し切れていない答えらしい。それでもあっけらかんとした短い答えとその物言いに、久島は大きく肩を落としていた。 「………馬鹿か、お前は」 そう言い放った久島は、げんなりとした表情を浮かべていた。言うに事欠いて、それが「根拠」か?――彼の心中にはそんな思いが渦巻く。 「そんな不確かな感覚で誰かを説得出来ると思ったら、大間違いだ」 「だからさ、皆を納得させるためにも、俺が潜ろうかなって」 「却下だ却下!」 遂に久島は声を荒げていた。波留の台詞を遮る。 彼にしてみたらこのやり取りは不毛であり、心底馬鹿馬鹿しかった。しかもこの相手は、この意見を大真面目に提示してきているらしい。その事実が、彼が感じる馬鹿馬鹿しさをますます増幅させて行った。 |