そんな淀んだ室内の空気に、一陣の風がもたらされた。
「――おはよう、皆」
 朗らかな声が部屋の入り口から投げ掛けられる。ついで靴音がそのまま部屋の中へと入ってきた。
「…あ、波留」
「いや…おはよう」
 口々に挨拶がその彼へと向けられた。その挨拶は一番最後に出勤してきた同僚を出迎えていると同時に、彼らが状況が変化するのを待ち望んでいた表れでもあった。
 今までの室内の様子を知らないままに次々に寄越される挨拶に微笑んで会釈しつつ、波留真理は自らの席を目指してゆく。
 彼も同僚達と同じく白衣を羽織り身分証を首から掛けていた。しかし同僚達と違うのは、それ以外の服装である。彼はスーツ姿ではなければネクタイも締めていない。黒シャツに黒のスラックスと言ういでたちだった。靴がスニーカーではない分、まだ空気は読んでいるのかもしれない。しかしその僅かな気遣いも、短い尻尾を有する髪型がぶち壊しにしていた。波留自身にしてみればそれは「仕事が忙しくて放っておいたら伸びてしまい、鬱陶しいので結んでみただけ」なのだが、明らかにお堅い独法職員の枠から逸脱している。
 周辺の様子は全く意に介す事なく、波留は普通通りに歩いてくる。挨拶を交わしつつ歩みを進め――不意に止まった。
「…あれ…何してるんだ?」
 微笑んだまま、波留はそれに気付いていた。彼の視線の前には、席に着いたままの久島と、その前に困り顔で立っている女性一般職が居た。
 その声に、久島はちらりと視線を上げた。波留の顔を見やる。しかし不機嫌そうに眉を寄せ、無言で会釈しただけだった。すぐにパソコンの画面へと視線を落とす。自分に構うなと言わんばかりの態度だった。
 そんな無愛想な座席の人物と、遅く出勤してきた朗らかな人物とを、女性職員は交互に見た。そして彼女の視線は黒髪の青年へと固定される。その表情は困り顔から縋るような代物へと変化していた。
 そして彼女は一歩を踏み出した。傍まで歩みを進めていた波留の前へと至った。
「――あの、波留さん」
「…何ですか?」
 途端に波留の表情が和らぐ。同僚相手とは打って変わって口調も丁寧になった。
「また久島が困った事を言ってるんですか?」
 しかしその波留の微笑みながら放り投げてきた直球な台詞とは、まともに返答しては角が立つばかりの代物だった。
 実際に直近で聞きつけたらしい久島の肩が、一瞬怒る。同時に、聞き耳を立てていた同僚達も内心冷や汗を大量分泌し、一斉に俯いた。彼らの本能が、その会話には一切関わりたくないとアラートを鳴らしてくる。
 ――何でお前もそんな事言うかね!?
 またしても彼らの心中はそんな方向で一致していた。
 その女性職員の能力は、一般的な事務職としての水準を充分に満たしている。だから彼女は困惑気味に言葉をぼかしつつ、波留へと答えていた。
「…いえ…その…波留さんにもお願いしたコンサートのチケットの一件で…」
「ああ」
 その答えに、波留は納得した表情を浮かべ、頷いた。微笑みはそのままに、女性職員へと訊く。
「久島は要らないと?」
「そう仰ってまして…」
「あなたはそれで困ってるんですね」
「…はい…」
 小さな声で答えつつ、彼女は俯いてしまった。
 そんな彼らのやり取りを俎上の人物も耳にしているが、彼は俯いて憮然とした表情を浮かべている。
 ――目の前で当てつけたように会話するな。この波留の態度には彼としてはそう思わざるを得ず、ますます苛立たしさが募ってきた。
 そしてその険悪な空気を、傍らに立っている女性職員も敏感に感じ取っている。だから微妙に居心地が悪い。しかしどうやら現在の会話の相手は全く意に介していないらしく微笑みを一向に絶やさなかった。
「困った奴ですねえ…全く」
 微笑んだまま波留は視線を下へと向けた。その笑みは苦笑いへと変化し、久島の褐色の頭を見ていた。しかしそんな事を言われても久島も女性職員も発する言葉がない。どう受け応えた所で、場の雰囲気を悪くするばかりだと思ったからだった。ともあれ、前者は自重であり後者は気後れであるとの微妙な違いが心中に存在している。
「でもまあ、興味もない人間にチケットを買えってノルマ言い渡す上も、前時代的ですよね。今はそんな時代じゃないってのに」
 女性職員の方を向いて波留はそんな事を言った。それもまた正論なのだが、だからと言ってそれに対して自分の方から愚痴を零す訳にはいかない。彼女にはその自制が働いた。
 チケットを必要としない久島と、斡旋を業務の一環として行わざるを得ない女性職員――おそらくはふたりに対する波留なりのフォローなのだろうかと彼女は推測し、その心遣いには感謝している。しかしチケット斡旋を行う立場である彼女は、表向きそのフォローに乗ってはならなかった。
 そこに、ぽんと音が響いた。波留が両手を打ち鳴らした音だった。
「――判りました」
 彼は納得したように、にこやかに頷く。無造作に伸びた前髪が揺れた。
「俺がもう1枚買いましょう」
「ええ!?」
 波留の申し出を耳にした途端、女性職員の口から頓狂な声が漏れていた。同時に周辺の席からもがたがたと音が響いている。波留の発言に誰もが驚き、無意識のうちに反応を寄越していた。
 そんな周辺の態度を、当の波留は一切気にしていない。微笑みを浮かべたまま、女性職員に続けていた。
「今月の給料から2枚分引き落としておいて下さい。経理にそう申し送って」
「え、でも波留さん…1席空けられても困るんですけど…」
 言い難そうな女性職員の声がする。それに、同僚達も我が意を得たようにうんうんと頷いていた。
 確かにチケット販売はノルマの一種ではあるのだが、単に売れたらいい訳ではない。それならば彼女もここまで困っていないし、既に同僚達が助け船を出してやっているだろう。
 実状として、チケットが売れてもそこが空席になっていては、斡旋された側としては非常に困るのである。これは付き合いの一種として請け負っているのであり、金銭的な問題ではないからだ。ホールを満席にしてこそだった。
 そう言った意味合いにおいて、一旦購入しておいての外部への転売行為も咎められる。一括して斡旋されている以上、電理研職員達がある一角を占める状況になる。そこに外部の人間が混ざった場合、職員達なら気付くはずだった。
 しかもそこにはノルマを疎んじる人間ばかりではなく、推進している上役も出席しているのだ。そんな上の人間に事が発覚したら、色々と損なうものがあるだろう。彼らは研究職であると同時に、会社人でもあるのだから。
 それらの事情を理解しているのかいないのか、波留は微笑みを絶やさない。
「大丈夫です。当てはあります」
「…でも、外部の人では困るんですが…」
「はい、紛れもない電理研の人ですよ」
 女性職員は困った表情のままだった。――「電理研の人々」には既に購入を「お願い」しているはずであり、ここまで頑なに断っているのはこの久島のみであるはずだった。なのに、他に身体が空いている職員が居ただろうか?――彼女はそんな疑念を抱いた。
 そんな彼女に、波留の眉が僅かに寄る。表情が困ったような笑みへと変化していた。彼は女性を真っ直ぐに見て、告げる。
「俺を信じて貰えませんか?」
 一気に女性の頬が染まった。口許に手を当てる。
 その空気に、同僚達は何故か自らの中にいきり立ちそうな心を感じた。端的に言うならば、それは「この無自覚な女たらしが…!」だろう。
「…では、波留さんには2枚、お願いします」
「ええ。当日を楽しみにしています」
 頬を赤らめたまま深々と頭を下げる女性職員に、波留も胸に手を当てて一礼していた。
 傍らの久島は眉間に深い皺を刻んだまま沈黙している。隣で勝手に進んだ会話を耳にした彼は、ある危惧を抱いていた。

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