電子産業理化学研究所――通称電理研とは、日本の独立行政法人のひとつである。発足したてのこの組織に属する研究職は、現状では例外なく他の職場で一定の成果を上げた人間達だった。それだけの人材を引き抜いて未来を担う産業へと投入しようとの政府の意志が働いている。 ここでは誰もが輝かしい肩書きを所有しており、紛れもないエリート集団である。そして現場の研究職達はその現状を傘に着る事もない。むしろそれ以上を目指し研究を続けている。その殆どの人間には名誉欲は持たない。彼らは己の研究を押し進めたいだけだった。 一方で、彼らを支える縁の下の力持ちたる一般職は、現地雇用の事務職が多数を占めていた。半ば政府機関である以上、雇用対策も兼ねているからである。 「現地の雇用対策」と言えども、海外機関とのやり取りも多いために、ある程度の英語力は必須条件ではあった。そういう意味では、一般職までもを含めて相応の能力の持ち主が集まった組織である。 そんな彼らも、紛れもない人間である。だから、普通の会社のオフィスのようなやり取りも日常的に存在していた。 「――…どうしても駄目なんでしょうか?」 「ああ」 それは、電理研オフィスでの、ある朝の出来事だった。 研究職に用意された部屋の一角、部屋の奥に位置するデスクの前で、スーツ姿の女性職員が頭を下げていた。そして彼女に対して、席に着いたままの白衣を羽織った男性が右手を胸の前で上げて短い答えを寄越していた。 リクルートスーツと呼ばれる類のスーツを着こなす年若い女性は顔を上げる。そこに浮かんでいる表情は、ほとほと困り切っていた。 眼前の研究職が常に携帯しているカードタイプの身分証明書は、白衣胸元のポケットに押し込まれている。それを首から吊り下げている赤い紐が垣間見えるばかりだった。しかしその証明を見ずとも、彼女には眼前の人物の名前は判るらしい。右手を胸に当て、若干前のめりの姿勢で彼に訴え掛ける。 「この部署で購入して頂いていないのは、久島さんだけなんです」 「とは言え、私には素養も興味もまるでなくてね。そんな人間が聴衆になってもオーケストラ当人達がつまらんだけだろう」 対する久島永一朗と言う名の研究職は、眼前に開かれたノートパソコンへと視線を落としていた。事務職女性を最早一顧だにしない。台詞の最後の方では、キーボードを叩く音が付随してくる程の状況だった。 「自由購入との名目だろう?ならば、私にも断る権利はあるはずだ」 彼が整然と答えると、女性の困り顔がますます深まってゆく。そしてその状況に対し、周辺の席に着いている研究職達は顔を俯かせて各々の作業に当たっていた。しかし聴覚はふたりの会話へと向けている。その行く末を息を殺して見守るばかりだった。 ――…それは建前であって、買わなきゃいけないんですってば…。 ――そもそもクラシックの公演なんて俺みたいに付き合いでチケット買って聴きに来る客も多いんだから、そんな真面目腐った態度取らなくても…。 彼らの心中の声は、以上の通りである。日本的な本音と建前論に則ったものであり、正論ではなく社会通念に従った代物だった。そして今この一般職の女性を困らせている人物は、紛れもなく正論を振りかざして盾としている。だから彼に対する反論は困難を極めていた。この場に居合わせた全員には、それが良く判っていた。 ともかく、久島以外の全員の心中の声は、以下に集約される。彼らは言葉を交わさなくとも、或いは顔を上げて視線を寄越さなくとも、同一の思考を共有していた。 ――つくづく融通利かないよなあ、久島さん…! |