波留の耳には波の音が聴こえてくる。顔に風が当たっている。首筋をくすぐるものを感じるが、まだ感触は緩慢なままである。
 ゆっくりと瞼を上げてゆくと、膝の上に揃えて置かれている自らの両手がその視界に入ってきた。最初はぼやけていたが、徐々に焦点が合ってくる。やけに白い皮膚で骨を覆っただけのような、貧弱で皺の寄った手の甲がそこにあった。
「――波留さん、おかえり」
 風の音だけではなく、少女のそんな声が波留の耳に届いていた。彼はゆっくりと顔を上げてゆく。傾いていた首が真っ直ぐになり、首筋をくすぐっていた後ろ髪がそのまま引き上げられていった。
 波留は正面を向く。その向かい側には先程別れたままに、ミナモの顔があった。彼はそれを認め、目を細める。
「ただいま」
 ――そう言えば、普段はお互い逆の言葉を交わしているような気もする。波留はミナモに短い挨拶を放った後に、そう思った。
「気持ち良さそうに眠ってるみたいだったよ」
 そう言いつつも、ミナモは軽く椅子から立ち上がる。身を乗り出してきた。テーブルの上にはお弁当がまだ並んでいたが、その脇を通り抜けるような形で波留を覗き込む。その大きな瞳は興味津々と言った表情を浮かべていた。
「で、一体どんな話だったの?今、どんな依頼を抱えてるの?」
「そうですねえ…」
 波留は溜息をつく。視線を上にやり、頬杖を突いた。守秘義務云々の問題は、おそらく彼女は自分のバディなのだから大丈夫だろうと考える。バディである以上、むしろ伝えておくべきなのではないだろうか。
 その結論に行き着くと、彼は両手を机の上に置いて組んだ。好奇心に溢れたミナモの視線を真正面から受け止める。そして彼はにっこりと微笑んで語り始めた。
「これは気象分子に関する大きなプロジェクトなのですが、僕が関わっているのはその気象分子の観測実験です」
「気象分子?観測?」
 波留の台詞の中にあった単語を捉まえつつ、ミナモは首を傾げた。大きな瞳に疑問の色が浮かぶ。
「はい。簡単に言うと、これを散布する事によって天候を操作出来るようになるんです」
 ミナモはますます首を傾げる。頭の上に大きなクエスチョンマークを浮かべているようだった。そんな彼女を他所に、波留の口調は滑らかになる。自分が解釈している内容を簡潔化して理論を展開してゆく。
「それは環境分子の一種なのですが、その用途のためにメタル経由で操作が可能であるように設計されています。ですから、環境分子のように只散布するだけでは駄目なんです。実用化に向けては、その操作が上手く行くかどうかと言う観測が必要になります。必要に応じて、メタルダイブした僕が操作する事も考慮して…」
 そこまで語った段階で、波留の台詞が途切れた。ミナモがぱったりとテーブルに上体を突っ伏しているのに気付いたからだった。頭につけている大きなリボンが力なく傾き落ちかけているのが、まるで彼女の心情を表しているかのようだ。
「――…ごめん、波留さん。私が悪かったよ」
 ミナモは突っ伏したまま右手を伸ばし、掌を広げた。話を止めてもらうように手を振った後に、まるでギブアップでもするかのようにテーブルをぺしぺしと叩いていた。
 その様子に波留は短く笑う。そこまで難しい言葉を使っている気は無かったが、どうやらこの少女にはついて来れなかったらしい。
 波留の笑い声を聴きつけて、ミナモはゆっくりと両手をテーブルに着いた。上体を持ち上げる。うんざりとした顔で彼女は髪を掻き上げた。
「波留さん、本当に頭いいよね」
「そんな事はないですよ」
 穏やかに波留はそう答えたが、ミナモはそれは謙遜だと捉えた。少なくとも、彼にとっての比較対象はそれこそ久島なのだろう。その時点で何か間違っていると思う。海に関する話題をしている普段はそうは思わないのだが、時折こんな話題になった時には彼女の兄であるソウタとイメージが被ってしまう。
「波留さんも意外に理系馬鹿って言うかさ…絶対、数学とか得意でしょ」
「嫌いでは無かったですし、特に困る事もなかったですね」
「…それ、充分凄いじゃない」
 のんびりとした調子で言う波留に対して、ミナモは呆れた声を上げていた。――やっぱり比較対象を思いっきり間違えてるよ、波留さん。ハードル高過ぎると思うよ。
 数学に苦手意識を持っていて実際に問題を解くのに時間が掛かる彼女にとって、彼らは別の惑星の住民のようだった。

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