人工島の上空は何時でも晴れ渡っている。そう言う風にコントロールされているからである。早朝の南国の空が何処までも青く続き、それは電理研の地上部分から見る事が出来る上空においても全く変わらない。
 男女を問わずスーツ姿の人間が出入りする中、波留は車椅子をコントロールして電理研の総合玄関から外へと姿を見せていた。彼の背後にはホロンも別の電理研所属の介助用アンドロイドも就いてはいない。単独での行動だった。
 通りの向こう側にある水上バスの乗降口からも、電理研職員や嘱託研究員らしき人間がまばらにやって来ている。時間帯としては遅い出勤時間と言う頃だが、それだけにこの一帯を歩く人間はまだまだ居る。おそらく電理研の地下部分に直結している地下鉄を利用して出勤している人間も多いだろう。
 基本的に電理研内においては制服と、部署によってはその上からの白衣着用が職員の義務となっている。しかし裏を返せば、電理研外に出る時にはその縛りは無い。更に、研究職が多い電理研においては、夜勤の人間も少なからず存在する。今の時間帯に退社してくる職員も居るものだった。
 容貌からして定年を迎えていそうであっても、研究職ならば何時までも職に就いているものである。大体、彼らの頂点に立つ統括部長自体がそう言う存在だった。
 そもそも電理研とは人工島を支配する大企業である。それだけに所属する人間も多く、同じ電理研に出入りしている人間でも、赤の他人であれば全く気にする事は無い職員が大半だった。
 そう言った事情から、波留の存在は職員達に一切気にされる事はなかった。玄関脇のスロープを利用して彼は車椅子を進めてゆく。そんな時、ふと彼は顔を上げた。彼の電脳に電通のダイアログが表示される。彼はすぐにその回線を開いた。
 ――波留さん、今何処?
 受信者が応答する間も与えずに、少女の声が彼の脳に届いてきた。波留はそれに微笑を浮かべる。
 ――今、電理研の総合玄関を出た所ですよ。ミナモさんはどちらに?
 ――私も今、水上バスがそっちに着いた所だよ。降りてる。
 そう言われ、波留はバス停の方を見た。大企業に通じるバス停だけあって、出勤時間の今は乗降客が多い。数台の水上バスが停車し、客のやり取りを行っている。視界にたくさんの人間が含まれる中、彼はその辺りに目を凝らした。車椅子をゆっくりとそちらの方へと進めてゆく。
 ――あ、波留さん!
 少女の大きな声が彼の電脳に響く。どうやらミナモの方が先に波留を発見したらしい。波留はそれに気付き、人ごみを見やった。しかしなかなか少女の姿は見付からない。
「――波留さん、こっちこっち!」
 電通としての音声と、耳に届く声とが同一のものとして波留に聴こえてきた。ミナモは一昔前の携帯電話のように電通を行っている。つまり、ペーパーインターフェイスを耳と口許に当てて音声通話を行う形で電通をしている。だからこのような二重音声として聴こえる事もあった。
 ともかく波留は実際の音声が聴こえてきた方を向いた。バス停から少し距離を取った場所で、人ごみも徐々にばらけてきている付近のようだった。その辺りを波留が見ていると、スーツ姿の群体の合間から肌色が露になった腕を元気良く振られている光景が目に入る。そしてその合間から掻き分けるように、少女の姿が現れてきた。彼もそれを認め、思わず軽く手を挙げた。
「波留さん、久し振り!」
 お互いの姿を認め、ミナモは勢い良く波留の元へと駆け寄ってくる。少女の半袖シャツと膝上ジーンズと言う露出の多い姿は、どう見ても出勤してくる職員達の中からは浮いていた。そのために彼女の方を見ている職員も多い。そして彼らの視線は、彼女が辿り着く老人にも行き着く。
「お久し振りです。ミナモさん」
 正面にやってきたミナモに波留は微笑み掛けた。そんな彼の両手をミナモは自分のそれで取る。嬉しそうな笑顔を浮かべてその手をぶんぶんと振った。
「波留さん、元気だった?」
「僕は大丈夫ですよ。ミナモさんもお変わりないようで何よりです」
「私、元気が取り柄だもん!」
 ミナモはにこにこと微笑んだ。そして波留から手を離す。自分の肩に下がっている大きなバッグの紐を支えた。動いた事で少しずれたらしい。それは、彼女が学校に通う時に良く持っているバッグだった。
 波留の衣服はいつもと変わらないが、赤系で纏められている。以前ミナモと水映館に行った時と同じような服装だった。そんな彼の姿を眺めていたミナモだったが、不意に気付いたように屈み込んだ。
「――あー!波留さん、これ!」
 少し驚いたような声が彼女の口から放たれていたが、満面の笑顔で波留の車椅子の肘掛けの辺りに手が伸びる。彼女のその様子に波留は相好を崩した。
「…お気付きになりましたか」
「これ、つけてくれたんだ」
 屈み込んだミナモがその指で摘み上げたのは、車椅子の右側の肘掛けの辺りに提げられたイルカのマスコットだった。クッション素材で造られており、その素材に合わせているのかイルカ本来のスマートさではなく可愛らしく丸っこくデフォルメされている。
 それが、付属のボールチェーンで肘掛けの支柱にきちんと固定されている。車椅子の車輪に巻き込まれないような位置にぶら下がっていた。ミナモはそのマスコットを嬉しそうな顔をしていじっている。
 そんな彼女の様子を波留はしばし目を細めて眺めていたが、そのうちに呼びかける。
「――それで、何処に行きましょうか」
「あ、うん」
 波留の声に気付いたようにミナモは頷く。マスコットから手を離した。膝に手を当て、起き上がる。肩に提げていたバッグがずり下がり、彼女はそれを支えた。
 そして再び波留を覗き込む。笑顔で彼女は老人に告げた。
「波留さん、海洋公園に行こう」
「海洋公園…ですか?」
 老人は少女の口から出た地名を繰り返す。人工島の住民ならばお馴染みの場所である。しかし、海洋公園と一言で表現しても、その範囲は相当に広い。地下鉄や水上バスにおいても停車駅は複数存在する程である。そもそも波留の事務所も海洋公園の一角に存在していた。
 ミナモは波留に頷きつつ、波留の後ろに回る。車椅子の持ち手を引き出した。そしてゆっくりと押し始める。彼女が先程歩いてきた水上バスの停留所へと再び進んで行こうとしていた。
 そこから出勤して来ている職員らしき人々の流れもまばらになりつつあるが、途切れてはいない。そんな彼らには少女に付き添われている老人の姿は流石に奇妙に思われるらしく、無遠慮に視線を送っていた。電理研は地上部分においてもランドマークとなり得るが、勤め人ならともかく少女が待ち合わせに利用するようなものでもない。
「それじゃ、しゅっぱーつ!」
 ミナモは波留や周りの人々の様子には全く気にする事はない。調子のいい声を上げて波留の車椅子を押している。
 電理研付近は人工島建設終了直後の入植時から存在するだけあり、歴史が新しい人工島の中では古い部類に入る。無論メンテナンスは行われているが、その路面からは20年の歳月を感じさせた。車輪が捉える僅かなでこぼこが波留に伝わってくる。しかし不快になる程のレベルではない。
 波留は一瞬、右手の手元に視線を落とした。その付近に、イルカのマスコットが下がっている。それもつられて僅かに揺れていた。波留はそれを軽く握り締めるように触り、すぐに離す。
 子供に人気がある水映館で販売されていただけあって、そのクッション地は手触りが良く、滑り落ちてゆく。これはあの時ミナモから貰ったもので、彼が今回の騒動を経て電理研の来賓施設で世話になる際に携えてきた「僅かな私物」に含まれた数少ない手荷物だった。
 手を離してからも波留は揺られるマスコットを眺めていたが、そのうちに視線を正面に向ける。彼らの前に水上バスの停留所が近付いて来ていた。利用者が多い停留所のため、バスはひっきりなしにやってきている。そして海洋公園方面も利用者が多い。ふたりは待ち時間もなく、移動出来そうだった。

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