ホロンが押す車椅子は、段々と人通りが少ない付近に到達しつつある。電理研のオフィス部分を通り過ぎ、不定期に使用されるような部屋が並んでいる区画に入ってきていた。電通を交わしつつも波留は顔を上げてその風景をちらりと見た。 ――事務所も少し見てきたけど、もう大分綺麗になってたよ。 ――そうですか…。 ミナモの話を訊きつつ、波留は電脳に届いていたメールの一覧を眺めていた。そこに並ぶタイトルの中から1通のメールを選び出し、展開する。 それは事務所の家主として登録されている波留宛に工事の施工業者から毎日届く設定になっている、進捗情報メールだった。ちなみに工事の依頼主である久島にも同様のメールが毎日送信されている。 ――…工事が終了して入居可能になるのは、明後日の予定となっていますね。 波留は展開されたメールの内容に目を通しつつ、ミナモにその概要を伝えていた。明後日入居可能ならば、明日一杯には工事の作業が終了しているはずだろう。そしてその前日である今日の時点でも、かなり形になっている事だろう。 ――明後日!?うわあ、私、絶対行くね! その事実を伝えた途端、ミナモの声が急に勢い良くなった。それに波留は笑う。しかし、次に彼女に告げた台詞には、申し訳ないと言った感情が込められていた。 ――…でも、僕は丁度、明後日から出張なんですよ。 それは先程のミーティングにおいて、最終的に決定した事項だった。気象分子の散布実験を行う海域の候補をいくつか割り出し、安定した観測を行えるかどうかその地点でのメタルの安定性を事前に測定する。それは実際にメタルダイバーを介さなければ判らない事だったし、出来る限り本実験と同じダイバーが試行すべき事だった。 そのために、彼も現場に出向かなければならない。今までは事務所なり電理研なりからメタルダイブしていたものだったが、今回はそれ以外の場所から行う事になる。これもまた、今までの依頼と違っていた。 波留の台詞に、ミナモは怪訝そうな声を返す。 ――…出張?波留さん、事務所行けないのに、何か仕事してるの? ミナモの疑問は当然の話だった。事務所が機能していないのに、波留が依頼を受けている訳がなかったからである。そう言う話になっているはずだった。 波留としてもそのつもりだったのだが、事情が変わっている。若干暢気そうに、笑みを湛えた声でミナモに答えていた。 ――はい。暇なもので、ついつい依頼を受けてしまいました。 ――久島さんが? ――まあ、そのようなものです。 波留は詳しい経緯とその内容は省く事にした。実際に久島経由で依頼を貰っているのだから、自分が言っている事は間違ってはいないだろうと拡大解釈している。 ミナモの声が一瞬途切れる。何かを考えている様子だった。しかし、すぐに元気な声が波留の元に届いてくる。 ――波留さん、明日は暇? ――…ええ、日中は大丈夫ですが。 波留は唐突な問いに戸惑いつつも答えた。 メタルダイブとは脳を酷使するものであり、その精神力を支える身体も資本となる。だからメタルダイバーは体調管理も重要な仕事となる。そのために、メタルダイブの予定が入っている前日には充分な休養を取り予定を入れない事を電理研から推奨されていた。 そこに、ミナモの声が飛び込んできた。 ――なら、出掛けよう! ――………え? 波留はぽかんとする。思わずそれはリアルでの表情にも表れてしまうが、それを見るような通りすがりの人間は全く存在しなかった。ともかく、一体どうして「なら」になるのか、彼には理解出来ない。 ――私、朝から電理研まで迎えに行くよ! ミナモの勢いはまだ続いている。波留が何も言わないのを良い事にしているのか、どんどんと彼女は話を進めて行っていた。こうなると彼女はなかなか止まらない。 ――…ミナモさん。明日の朝からって…学校は? ――大丈夫。明日は休みだから! ようやく波留は気を取り直し、とりあえずの疑問点を口にした。しかしそれに対してもミナモは即答していた。その明確な解答に波留は再び黙ってしまう。 ――じゃあ、そう言う事でいいよね? ――…ええ。 波留としては、断る理由は何処にもなかった。実際に自分は予定は何もなく、ミナモも学校が休みで何も予定がないのならば、互いに何の問題もないだろう。 しかし、だからと言って、何をどうするのだろう。波留はそう思うが、そもそも普段から何の案件も抱えてない日もミナモは事務所に通っているのだから、その延長線上にあるようなものかもしれないとも思う。 ――明日楽しみにしてるね!じゃあ、お休みなさーい! おそらく現在、リアルでミナモと出会っていたならば、大きな身振り手振りを交えてこんな会話を交わしていただろう。波留にはそんな想像がつく程に、賑やかな様子を保ったまま彼女からの電通はオフになった。 波留の電脳に表示されていた電通ダイアログが閉じられる。彼は右のこめかみに指を当てた。少し瞼を伏せ、俯き加減になる。 それから彼は、メールの一覧を再び参照する。そこには電通中に新たに着信してきていたメールがあった。差出人名には久島永一朗と記載されている。彼はそれを躊躇いなく展開した。 どうやらミーティングが終了した事は、既に久島にも伝わっていたらしい。だからこのタイミングでメールが着信しているのだろう。 しかしメール自体ではそのミーディングの内容に特に触れてはいない。その代わりに、昨日の今日なのだから早く休むようにとか、そう言ったプライベートの小言めいた事が綴られていた。 案件自体に触れないのは、久島はこの案件には直接的には関わってはいないからだろう。そして関わっている波留には守秘義務があるために、親友と言えども下手に訊いてはならないと言う気遣いが働いているのだろう。そう言った事情を波留も判っていた。だから彼からの返信においても、案件自体には触れない事にしている。 波留はメールの返信画面を開く。小言には苦笑しつつも、毎度お馴染みの文句かと思い、敢えて返信はしない。しかし久島が自分の保証人である以上ある程度の予定は把握しておくべきだろうと考え、明後日にはメタルダイブ絡みで出張する事は告げておく事にする。 そこまで文字を羅列した所で、波留は少し考え込む。軽く迷っていた。しかし、それもすぐに終わる。脳で考えていた事をそのまま打ち出した。 「明日は朝から外出する」――その旨をメールの最後に付け加え、波留はそのまま久島に対して送信する。 仕事上メタルダイブを行う可能性があるならばその前日には休息をしっかり取るようにとの小言が返ってきそうな気もしたが、もしそんなメールが届いても返信はしない事にした。電通着信設定もオフにしておく。それは別に久島を無視するとか、そう言うつもりではない。時間的に無理そうだったからだ。 波留自身、休息を蔑ろにするつもりはないので、部屋に戻り次第早急に床に就くつもりだった。身体もそれを求めている。実際に、瞼が重くなって来ていた。 彼の作業が一段落した頃には、車椅子はホロンによって来賓施設に導かれて行っていた。 |