夕方から始まったミーティングが終了した頃には、時計上での時刻は夜となっていた。メタルアバターではなくリアルの身体を用いての会議の利点は、長時間行える点にある。メタルを介さないのだから、意識を安定させる設備も必要ないためだ。 その長時間の参加を生かし、このチームに途中参加の身の上だった波留も現状を充分に把握する事が出来た。研究報告の後に行われたディスカッションや質疑応答などにも参加してゆき、結果的にチームの仲間となる研究者やダイバー達にも良い印象を残している。 互いに挨拶を交わしつつ、会議は散会してゆく。波留は電脳で車椅子を動かし、会議室の後ろの出入り口から退出して行った。車椅子のためにどうしても徒歩の人間の邪魔になりがちのため、彼は最後の方に出てゆく。 部屋の外ではホロンが待っていた。扉の隣に立っていた彼女は、部屋から出てきたマスターの存在にすぐに気付く。波留に対してにこやかに会釈し、歩み寄ってきた。 「お疲れ様です。マスター」 「ああ、待たせたね」 部屋に沿っている廊下にまばらに残っていた波留の「同僚達」にも、ホロンは軽く頭を下げていく。そうしつつも彼女は自然な動きで波留の背後に回った。そして車椅子の背面にある持ち手を引き出した。 「部屋に戻りますか?」 屈み込んで尋ねてくるホロンに、波留は顔を上げた。彼女を見上げて答える。 「…ああ、そうだね。少し疲れたから、今日は早く休むとしよう」 今日は身体的に長時間拘束されている。そしてアバター会議でこそなかったが、脳も資料閲覧などによって酷使していた。それらの行為は波留の老いた身体には多少響く。 特に昨晩は結局日が替わって暫くしてから就寝したが起床時間は普段と変わっていないために、彼にとっての平均的な睡眠時間を確保出来ていなかった。今日はそれを補わなくては、身体に疲れを蓄積させてしまう事となる。それは避けなければならない話だった。 ホロンは波留に頷く。そして車椅子をゆっくりと押し始める。車椅子の車輪の音が滑らかに響き、波留の身体にも僅かな振動を伝えてゆく。波留の視界に並ぶ壁際の窓が流れていった。単純な光景に、若干眠気を誘われる。 そんな折、彼の電脳に単純な電子音が鳴り響いた。それに彼はふと顔を上げる。 それは電通の着信音だった。彼は今までの会議中には、流石に外部からの電通着信設定をオフにしていた。履歴を探ってみても会議中に着信は来ていない。それが終わった途端に電通が来るのだから、丁度いいタイミングである。 波留の脳内に表示されるダイアログには相手のアイコンは出てこずに名前のみが表示されている。そこには蒼井ミナモと表示されていた。 ミナモは電脳化していないために、ボイスオンリーのチャット形式でしか電通が出来ないのである。彼女にとっては電通とは、前時代の携帯電話のような形式で端末を使用して行うものであった。 ともかく波留は着信者の名前を電脳で眺めやり、リアルでは目を細めていた。微笑んで回線を開く。 ――お待たせしました。ミナモさん。 電通形式の会話であるため、リアルの彼は口を開く事はない。只微笑ましい気分は隠そうとはしておらず、結果的に微笑みを浮かべている。 ――波留さん、今大丈夫だった? 少女の快活な声が、彼の電脳に飛び込んでくる。事務所が工事中の現状、ふたりは毎日電通を交わしている。夕方から夜にかけてミナモから電通が来るのが通例であったため、今まで着信の事実がなかった以上そろそろだろうかとは波留も考えていた。 ――ええ。僕の用事も先程終わった所です。今日は少し遅い時間ですね。 世間話のように波留は話を振る。もう夕食も摂ってしまって自室で落ち着いているような時間帯のために、ミナモにそんな事を訊いていた。 ――うん。今日は波留さんの事務所とか寄ったから、家に帰るのが遅くなっちゃって。 二昔前の固定電話ではないのだから、電通自体は場所を選ばず何処からでも出来る。それでも、急ぎの用件ではなく世間話なのだから、落ち着いた頃に電通を行うのがミナモのペースだった。 それは理解していたから波留はその点においては疑問は持たない。怪訝に思ったのは、別の点においてである。 ――事務所?まだ工事は終わっていませんよね? ――うん。フジワラさん達のショップに行きたかったの。シュレディンガーの様子も見たかったし。 ――そうですか…。 仰々しい名前の猫の話題になり、波留は顎に手を当てた。今回の事件と改装工事において、件の隣人達には甚だ迷惑を掛けてしまっていると彼は思う。いずれ帰宅した際には挨拶と何らかのお礼をしなければならないと考えてはいた。 ――元気そうだったよ。って言うか、いつもみたいにずっと寝てるみたい。フジワラさん達も手間が掛からなくていいって言ってた。 ――それは…彼らしい…。 波留は苦笑した。猫だと言うのに全く動いている様子を見せず、気付いた時には何処かしらで伸びるなり丸くなるなりして眠っている。そのあまりの動かなさに、有機体で造られた猫型ペットロボかと勘違いする者も居る。――そんな怠惰な猫の情景は、彼にも容易に想像出来ていた。 事務所に入れない状況でも、確かに誰も彼もペースを崩してはいない。しかしその最たるは、あの猫であるらしかった。 |