それから話は動いてゆく。
 波留は翌日の早朝から久島のオフィスに出向き、今回の案件の詳細を訊き、それを了承した。丁度その日のうちに定例のミーティングの予定が入っていたために、波留はそれに出席する事となった。
 今回のミーティングはアバター会議ではなくリアルで電理研の小会議室のひとつを借りて行われるために、そこに集う人数は少ない。波留が参加する案件は、大きなプロジェクトに包括されているひとつのチームに過ぎなかった。
 10人程度の参加者の殆どは白衣の研究者だった。その彼らも白衣の下に纏っているものは電理研の制服とは限らない。他の企業からの出向者も含まれていた。本当に、今回の案件とプロジェクト自体が電理研主導のものではない事がそこからも読み取る事が出来る。
 波留は会議室の入口まではホロンに付き添われていたが、その室内には独りで入ってゆく。流石に車椅子を使用している人間は他には居ないらしかった。更にそれと合わせ技で、使用者が老人である。紳士然とした小奇麗な格好をしてはいるが、その上から白衣は纏っていない。髪も白く、老人にしては珍しい事にある程度の長さがあり、後頭部で纏められている。そんな見慣れない車椅子の老人の入室に対して奇異な視線を送る者も居た。
 それでも、会議室内の電脳には各人の仕事上のプロファイルが登録されている。そこには、今日の時点で新規にチームに登録された波留のものも揃えられていた。老人の存在が気になる者は各自それを閲覧し、自分の気持ちを納得させてゆく。
 ――もしかしたら、この場の人々からは研究者と思われていただろうか。まさか老人がメタルダイバーをやっているなどとは思われていなかっただろうか。波留は自らの電脳に取り込んだ自身のプロファイルに目を通しつつもそんな事を思い、思わず苦笑する。
 そのプロファイルには、彼が今まで電脳ダイバーとしてこなしてきた案件が客観的な評価を付加して記載されている。それは久島が纏めたものなのか、それともホロンの報告書を元にしているのか、或いは久島が部下に命じて作らせたものなのか。波留にはそこまでは判らなかった。
 しかし自分の仕事に対して明確な評価を下されてみると、波留には気恥ずかしいものがある。全ての案件について結構な評価がつけられているのだから尚更だった。これを見てなら、波留を指名してくる依頼者も出てくるものだろう。
 彼は自身のプロファイルをざっと眺める。電理研からの依頼を引き継いではいるが形式上は個人的な依頼となっているボブ・周恩サルベージの案件から始まり、電理研からの正式な依頼としてはシステムメタルの更新チェック、イリス探索、脳餓死事件…と羅列されている。その合間に、ダイバー救出や「エライザ」事件、犬メタルの一件なども挿入されていた。
 こうしてプロファイルと言う形式で眺めてゆくと、何だかんだでこの2ヶ月の間に結構な案件を処理して来ているものだと彼は思った。――ミナモさんが心配するように、やはり働き過ぎなのだろうか僕は。
 車椅子を進め、波留は後ろの方の席に着いていた。彼は自らのプロファイルの閲覧を終了し、これから共に案件をこなす事となる仲間達のそれにも軽く目を通す。
 それが一段落した頃には、彼の前方の壇上に白衣の男が立っていた。彼は容貌としては50代といった所で、服装からして電理研の人間ではない。彼はいくつかの形式的な挨拶を述べた後に、すぐに参加者の電脳に資料を送信してきた。会議室の中空には人工島とその周辺海域のモデル映像が投影される。
 波留は壇上の研究者の言葉や電脳で展開される資料データ、モデル映像にプロッティングされる情報を脳で処理してゆく。今日から乱入して来ている彼に対する気配りは一切存在しないミーティングとなっていた。だから波留は自分のペースで情報を整理していった。
 気象分子の観測実験。それがこのチームに与えられた仕事だった。
 人工島の次世代製品と位置付けられている気象分子は現在、開発の最終段階に入っている。そのために大規模な人員を投入して、最終確認のための実験が始められていた。この実験で安全性が確認された段階で、晴れて新商品として全世界に向けて売り出される事となる。
 今後、気象分子の大規模な散布実験を行い、その動向をメタルから観測する。現在はその時期と散布場所とを見計らっている所だった。
 波留は後ろの席からそう言った話に聞き入っていた。机に両肘を突き、顎の前で両手を組んで顔を乗せ、支えている。
 彼にとって、気象分子の専門的な話は確かに初めて訊くものだった。しかし彼の手元にはそれをフォローする資料が揃っており、今の話の内容も充分に理解出来ていた。そして自分がやるべき仕事も把握する。
 そう言った思惟に浸っていると、波留は昔を思い出してしまう。前の席に並ぶ白衣の一群の背中が視界に入ると、本当に50年前と同等の風景だと思う。
 あの頃も彼はダイバーで、研究者達の会議に出席しても決まって後ろの方の席に着いているものだった。それはダイバーだからと研究者達に差別されている訳でも、波留自身が弁えてしまっている訳でもなく、彼自身がその席を好んで選んでいるだけだった。一歩引いた所から話を訊いて研究内容を把握し、その後に気の済むまで質問してゆく。それが彼のスタンスだった。
 彼は当時、そうする事で研究者同様にその研究内容を理解し、納得した上でダイブを行ってきた。そしてそれは現在においても同じ事となりそうだった。
 壇上の研究者の説明が終わりつつある。波留は組んだ両手に顎を乗せたまま、伏し目がちに俯いた。要点を脳内で整理し、それに対する疑問点を羅列してゆく。
 新しい事実を知る事は、今の彼にとっても面白い事だった。知的好奇心を刺激されて楽しいと感じる。
 彼の眼前に見える自らの両手は、皺が寄り節くれ立っていた。肉体的にはそんな歳になったとしても尚、知りたいと言う気持ちは萎える事がない。精神的には加齢を経ていないのだから当然と言うべきなのだろうかと彼自身は思っていた。
 僕はまだ、満足して死ぬ事は出来ないらしい。彼らと同じ心境には立つ事は未だに出来ないだろう。
 そんな風に波留は、ふと昨晩の図書館での出来事を思い出していた。

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