図書館は静寂に包まれている。空調の音も目立たないし、室内灯や書見台備え付けの蛍光灯も穏やかにそれぞれの役目を果たしている。人間達が動かない限り、時間の経過を表す存在は全くなかった。 波留は背筋を伸ばし、書見台に向かい合っている。その瞼を伏せられていた。何かを考え込んでいるのか、それともメタルに接続しているのか――久島は彼の横顔を見やりながらそう考える。どちらとも区別が付け辛いのが、この人工島の住民達だった。 久島は顎に手を当てた。彼の場合は、脳で考えを纏めようとする。彼の脳には、処理をしなければならない事柄が数多かった。 その中のひとつを、彼は選択していた。それは処理待ちの付箋をつけたまま、数日放置していた事項である。しかしこの今、彼はそれを取り上げる。 久島は顎から手を下ろした。そして真面目な口調で言い出す。 「――波留。君に依頼したい案件がある」 「…それはまた唐突だな」 波留は久島の口調の変化を感じ取り、顔を上げた。瞼を開け、久島を見上げる。久島の台詞にすぐに反応した事からメタルには接続していなかったらしい。 久島を見上げる波留の表情はきょとんとしている。彼が評したように、これは唐突な台詞だったからである。 久島のオフィスではなくこんな場所で、メタル経由で資料も出さずに、そんな事を言い出す。まるで先程の同窓会計画のようだったが、今回は「依頼したい案件」と言っている。それは波留にとって、日常に位置するものだった。それを使って久島が冗談を言うとは、波留には思えなかった。しかし唐突な印象は否めない。 波留の感じた印象を無視し、久島は同じ口調を保ったまま続ける。 「それは私が主導している計画ではないし、君にはあるチームの一員になって貰う事になる」 つまり、今まで久島経由で電理研が波留に寄越してきた仕事とは、明らかに一線を画している。それは波留にも理解出来た。そのために波留の表情が引き締まってゆく。案件として、真面目に受け取りつつあった。 「今までの依頼とはあまりに環境が違い過ぎるから、私は君に回す事を断るつもりだった」 久島の説明は続いていたが、波留はその台詞に軽く反応した。その言葉を捉えた瞬間、軽く首を傾げる。 「――と言う事は、その依頼主は僕を指名してきたのか?」 波留の問いに久島は頷いた。そして続ける。 「腕のいいダイバーが欲しいと言う依頼は数あれど、君個人を指名してきたのは初めてだった。メタルダイバーとしての君の技量も世間に知られてきたと言う訳だ。本来ならば喜ばしい事なのだろう」 久島の台詞に、波留は相槌を打つように軽く頷いていた。 確かに事務所が開設されたこの2ヶ月の間に波留がこなした案件は少なくない。中には電理研が絡んではいない依頼もあったが、そのダイブログも電理研に提出する義務がある。電理研の委託ダイバーである以上、秘密裏に行われるダイブなど建前としては存在しない事になっているためだ。それらも含めて資料として閲覧した結果、お眼鏡に適った相手が居たのだろうと波留は考える。 彼は、別に名前を売るつもりでメタルダイバーをやっている訳ではない。むしろメタルダイブは彼にとって「海」を感じる手段である以上、多くの依頼が舞い込んで来ては却って不都合が生じる可能性があった。 更には今までの依頼は久島経由と言う事もあり、自分のやりたいようにさせて貰って来ていた。すぐに仕事に取り掛からずに、メタルダイブそのものを目的とした引き伸ばしのような行為すらした事もある。普通の依頼者がそれを知れば事務所に殴り込んで来るか、穏健に済ませるにしても仲介役の電理研にクレームをつけるだろう。 久島の説明を総合するに、今回の案件は、そう気楽にはいかないらしい。チーム制との事からして、他のダイバーと組む事も視野に入れなくてはならないらしい。確かに不自由極まりない案件となりそうだと波留は思った。 しかし、波留はこの案件を断る気はなかった。不自由極まりないとは言え、メタルに潜る口実を与えてくれる代物だからである。 それに50年前のリアルの海へのダイブでは、そう言ったしがらみの中きちんと仕事をこなしてきている。今回も「依頼」である以上、「仕事」として処理出来ない訳がなかった。彼は元々プロのダイバーである。リアルの海に潜る事は確かに大好きだったが、昔から自分の趣味を優先してばかりではなかった。充分に立場を弁える事が出来ていた。 「僕は別に構わないが…君にとって何か不都合でも?」 「いや…只、そう言う案件だから、私はそんなにサポート出来ないだろう」 それは、若干歯切れが悪い答えだった。 久島は今までも極力、事前に依頼を選んだ上で波留に回していた。選んだ上であっても結果的に危険な案件となってしまうものもままあったが、それはメタル自体に危険な部分が包括されているのだから仕方のない話だった。 今回は波留を指名した上で、久島の手が関わる事がないような案件である。依頼を受けた以上、ダイバーには守秘義務が発生する。無論電理研も関わる仕事である以上、統括部長である久島の存在が完全に無視される事はないだろうが、彼が全てを把握する事は難しくなるだろう。 だから彼としては波留に話すまでもなく、断ろうかと思っていた。ダイバーとしての能力のみを買われ、老人としてのリアルの状況を考えないような下手な事を持ちかけられては敵わないと考えたからだった。 断るに当たって色々と事情はでっち上げるつもりではあったが、それでも明確な人選を行ってきている依頼を断る事は久島にとって結構なマイナス査定となる。特に今回の依頼主は、久島に匹敵する強大な権力の持ち主である。隙を見せたら即付け込まれるだろう事は久島にも判っていた。それでも彼は波留を危機には晒したくはなかったのだ。 ならば何故、今になって、寝かせていたこの案件を波留に持ちかけているのか。 それは、やはり案件の内容を波留当人に伝えないまま勝手に断っていては、久島だけではなく波留の名前にも傷がつくからである。しかも納得づくで傷を受け容れる久島とは違い、波留にとっては当人が与り知らない時点で勝手に傷を付けられるのである。それは、波留にとってはたまったものではないだろう。 その仮定に、久島は今ようやく思い至ったからだった。とりあえずは、それが久島にとっての第一の理由だった。それ以外の理由の言語化には、多少躊躇いを感じている。 そんな久島に対して波留はにこやかな笑みを浮かべている。両手を肘掛けに置き、普段のような態度を取っていた。 「君は何時だって僕に命令すればいいんだ。四の五言わずに潜ってデータを持って来いと。そうだろう?久島統括部長」 波留のその台詞に久島は眉を寄せた。今回に限って重々しい肩書きを付与して呼ばれた事に、少々の他意を感じる。 「親友である君から、私の立場を云々されるのは少し厭だな」 「なら、久島主任と言い換えようか?」 波留の悪戯っぽい声に、久島は何も言えなかった。少し圧倒される。 しかしすぐに口許を綻ばせた。それは、彼にとって昔を思い出させる言葉だった。 50年前において久島は波留の上司であったのに、普段は呼び捨てだった。なのに敢えて肩書きを付けて呼ぶ時には、大抵何か裏があったのだ。妙な事を頼んできたり、或いは只単に腹を立てていたり、とにかくそんな昔の波留の態度が瞬時に久島の脳裏に蘇ってきていた。 「昔の僕らみたいで、楽しそうな現場じゃないか」 波留はそう言って車椅子に腰掛けた状態で身体を捻り、振り返った。後ろを見上げつつ、右腕を上げる。その手には拳が作り出されている。彼はその手を久島に向かって突き出した。 「ああ、そうだろうな。今から発展してゆく技術のための実験だからな。あの頃と変わらないかもしれないな」 久島も少し笑みを浮かべた。眼前に来ている波留の拳に視線を落とす。そして久島もまた、右手で拳を作り出した。それを突き出し、波留のそれと軽くかち合わせる。これもまた、昔良くやった仕草だった。義手と老人の手と、50年前とは随分と変わってしまっているが、互いの精神的には一切変化してはいなかった。 僅かに硬い音を室内に響かせた後、ふたりの右手はゆっくりと離れてゆく。その後でもふたりの視線は笑みを含んだまま合わされたままだった。 「久島、その案件について詳しい話を訊きたい」 「それについて語ると長くなるから、明朝としよう」 この時点で既に日が替わりそうな時間帯となっている。それに久島は気付き、次いで波留も気付いた。その事実にふたりは苦笑気味に微笑み合う。全く、そもそもは早く寝ろと叱り付けるためにここに来たのではなかったか?それが、話し込むネタを持ち込んでどうする――久島はそう思って苦笑してしまうし、波留は逆の立場として苦笑してしまう。 結局この案件の内容自体を久島は全く説明していない。それは明朝改めて、最初から話す事となった。 |