波留は細く白い骨ばった人差し指で、その写真に写っているひとりの男を指した。如何にも白衣が似合う、研究者然とした壮年の男である。
「――それは、彼の本だったね」
 久島の方を見ないままに波留はそう言った。そのために久島は一瞬戸惑った。手の中にある書籍の表紙をちらりと見やる。
「…ああ」
 しかしすぐに久島は写真に視線を落とし、頷いていた。彼の手の中にある書籍の巻末に記載されていた寄贈者名とその人物の名前は、彼の記憶の中で一致している。おそらく波留の中でも既に一致させているのだろうと彼は思う。
「彼は今はどうしているんだろう?」
 淡々とした調子で波留にそう問われ、久島は軽く瞼を伏せた。自らの記憶を辿ってゆく。メタルで検索すればすぐに結果も出るだろうが、彼はそうしなかった。あくまでも自分の生脳に残された記憶を単純に走査するだけだった。
 それでも彼は記憶の糸口を掴み取る。薄く瞼を開け、言った。
「確か…人工島建設に目処が立った頃には退職したよ。もうそう言う歳だったからな」
「そうか…」
 人工島の建設が終了し、本格的な入植が始まったのは20年前の事である。久島や波留の年代の人間ならば、60代に差し掛かっているはずだった。
 その年代ともなれば既に一線を退きリタイヤする人間の方が多いものだ。現在の医療技術や義体施術により、加齢による老いは緩やかなものとなりつつあるが、それでも80代で尚現役な久島や波留のような存在はまだまだ少数派だった。
「その時故郷の日本に帰ったと訊いたが、それ以降は知らないな。おそらく電理研にも資料はないだろう」
 電理研職員ではなくなった以上、それ以上の追跡調査は行われない。個人のプライベートには深く立ち入らないようにするのが、人工島の社会常識だった。
 久島の答えに波留は溜息をついた。軽く肩が落ちる。小型のペーパー型モニタに当てられた指が、表示されている写真の上を軽くなぞった。
 久島は書見台にある書籍に視線をやった。何冊かの表紙を眺め、書名と作者名を把握する。全て似たようなジャンルの学術書だった。そしてその中の大半は久島にも読んだ覚えがある。
 それらの事実から類推できる事があった。彼はそれを口に出す。
「これは、全て彼らの寄贈本か?」
「そうだよ。メタルで条件を付与して書籍検索すれば、寄贈本がどれかはすぐ判るからね」
 波留は相変わらず久島を見ないまま、淡々とした口調で言う。久島の推測を肯定した。
 波留が述べた手法と合わせ、本を寄贈した人間の名前も図書館のデータベースに記載されているものだった。そうやって彼は着実に目当ての書籍を探し出していったのだろう。
 久島にも波留が行った手法は理解出来た。しかし彼が何故このような事をしているのか、そこまでは確証を持てない。
 電理研に滞在しているついでに、懐かしい書籍にでも目を通したくなったのだろうか。外部への貸し出しが許されていない図書館なのだから、このように電理研に長々と居座っている時でなければ手を出せないだろうから。
 そうしているうちに「懐かしい書籍」に、ある共通項を見出して、メタルで検索していくうちにこうなってしまったのだろうか――そう言う当たり障りのない可能性を考えるが、果たして本当にそうなのだろうかと久島は思ってしまう。
 久島は沈黙している波留を見下ろしている。軽く溜息をつき、久島は右腕を伸ばした。波留の目の前を横切る形で書見台に手の中の本を立てかけて戻す。彼がその手を離すと、木製を模した書見台と紛れもない紙製である本とが擦れ合い微かな音を立てた。
 何も反応しない波留を見やりつつ、久島はその手を上げようとする。その手が波留の眼前を横切った時に、不意に久島は思いついた事をそのまま口に出していた。
「――暇を見つけて、同窓会でも企画してみるか?」
 その台詞に波留は軽く顔を揺らした。少し驚いた風に、波留は上を向く。見下ろしている久島と視線が合った。
 久島の表情は普段彼が浮かべているような顰め面と言うべき代物だった。台詞の内容とあまり一致していない。だから心底望んでその台詞を言った訳ではないのだろうし、下手に表情を作り出していないのだから嘘をついている訳でもないのだろうと波留は受け取った。本当に、今思い付いた事を口にしただけなのだろうと。
 ここで同窓会などと言う選択を持ち出してくる。その微妙にずれた感覚が、久島らしいと波留は思う。思わず口許が綻ぶ。
「いや…亡くなった人も居るし、もう出歩けない人間も多そうだから、無理じゃないかな…」
 しかし、口許には笑みを浮かべつつも、波留は再び視線を落としていた。そこにはあまりに細い、彼の動かない両脚がある。彼は左手でその膝をそっと擦った。
 波留はこの写真のメンバーの中では歳若い方だった。そんな彼でも既に81歳になってしまった現在である。彼より年長の元同僚達の健康状態は心配されて然るべきだろう。
 そして何より逝去したからこそ、その遺族が遺品状態の書籍を彼らが所属していた電理研に寄贈している履歴を、波留はデータベースの状況から推測出来ていた。或いは久島は、それらの一部を記憶に残る事実として把握していた。
 波留よりも4歳若いはずの女性すら、2年前に既に亡くなっている。退職後に人工島から出て行った人間も少なくない。「楽園」と呼ばれる人工島よりも介護設備が充実している都市など他に存在するのだろうか。
 この写真のメンバーは、自分達以外はもう余生すら消費が終了しているのではないか。久島はそんな風に考えてしまう。そしておそらくそこに居る親友も同じ気持ちを抱いているのではないだろうかと、考えた。
 そこに、不意に波留の声が静かに響いた。
「――皆、満足して、死んだのかな」
 端的な台詞に、久島は僅かに弾かれたように身体が反応する。本来ならばもっと反応を隠したかったのだが、彼はそれに失敗していた。
 彼の反応を視界に入れたのかそうでないのか、波留は相変わらず俯き加減のままだった。手にしている写真に視線を落としている。
「僕はこのなりだけど、人生経験自体は短いからね。彼らが至ったはずの心境は、まだ判らないんだ」
 そこまで言って波留はついと顔を上げた。書見台に相対するように正面を向く。写真を映し出している小型のペーパー型モニタをそっと膝の上に下ろした。
 久島はそんな彼の動きを注視していた。彼の言いたい事は理解出来た。波留は肉体では81歳を迎えているとは言え、そのうち50年間は昏睡状態にあった。無為に年月を消費して行ったに過ぎないのだ。
 人間、80年も生きれば普通は充分であるはずだった。充分に生き抜き、充実した一生を送ったと実感する人間も多いだろう。久島のように老齢を迎えても、未だに知への欲求に執着し続ける人間はそうは居ない。
 しかし波留は肉体は老いても、精神はそこに置いていかれている。流れた時間に着いていけていない。
 久島は波留の向こうに、書見台に並ぶ書籍群を見ていた。様々な版形ではあるが、そのどれもが専門書らしくシンプルな表紙である。それらが書見台に立てかけられる格好で規則正しく並んでいる。
 ――まるで墓標のようだ。久島はそう、不意に思った。

[next][back]

[RD top] [SITE top]