「――波留」
 久島は彼の隣に立ち、彼の名を呼んだ。そして読書に適した角度が付けられている書見台の上の方に手をつき、老人を見下ろす格好になる。そうする事で偶然か、書籍に影が掛かった。そこで初めて気付いたように、白髪の顔が上げられた。ページを捲ろうとしていた手が止まる。
「久島、君が何故ここに?」
 波留が意外そうな声を上げつつも久島を見上げていた。その態度に久島は溜息をついてみせる。手をついた書見台を指で軽くとんとんと叩いた。
「君が部屋に居ないからここに来たんだ。もう夜も遅い。休まなければ駄目だろう」
「ああ…ついつい本を読んでいると時間が経つのを忘れてしまうよ」
 いつものように小言めいた事を言い募ってくる久島に、波留は苦笑した。彼が視線を横にやると、そこには更に何冊かの書籍が書見台に立てかけてある。
「そんなに熱心に何を読んでいるんだ?」
 波留の視線を追いそれらの書籍の存在にも気付いた久島は、興味に駆られた。波留の前を横切る形で腕を伸ばし、それらのうちの1冊を手に取り、目の前に持ってくる。
 現代にも残っている紙媒体の書籍らしく古ぼけた表紙が彼の視界に入った。書籍名と作者名のみが書かれている無骨な表紙は学術的な専門書の体裁そのものだった。それは久島の専門にも被っていて、彼も過去において目を通した記憶がある書籍だった。
 ――波留にとっても自分の専門と被るような書籍のはずだ。確かに懐かしい気分にもなる。久島はそんな事を思いつつ本を開いた。開いたそのままの勢いでページを進めてゆく。少し変色している本文には、あちこちにラインやマーカーが引かれていた。
 図書館の本にこのような事をするならば、普通に考えて礼儀がなっていない行為である。しかしこれは人工島が建設される前の時代の書籍なのだから、新刊が図書館に入っていなくて当然だろうと久島は思う。既に誰かの所有物であった書籍が、後に図書館に入ってきたのだ。そして電理研の図書館においても書籍の寄贈は受け付けているものだった。
 久島がそんな事を考えているうちに、捲られてゆくページが進んで行く。そして最後のページに行き着き、そこにスタンプが押されているのを彼は見た。簡潔な「寄贈」と言う文字のスタンプ印と共に筆文字で人名が書かれている。
 その名前を認めた瞬間、久島は軽く息を飲んだ。両手で本を手にしたまま動きが止まる。
「――懐かしいだろ」
 久島がどんな考えを抱いているのかを知ってか知らずか、波留は朗らかに言う。しかし彼は久島を見上げないままだった。書見台を見たままで俯き加減を保っている。
「…ああ、本当に」
 その声を耳にして、久島は軽い溜息をついた。僅かに本を下ろす。そして顔の前で、本をぱたんと閉じた。僅かに起こった風が彼の前髪を揺らす。
 薄く微笑を浮かべた表情で、久島は波留を見下ろす。その頃には、波留は書見台に開いていた書籍を閉じていた。そして今の波留のその手元には、小型のペーパー型モニタがある。
 そこに表示されているのは、数人の集合写真だった。全員がまるで制服のように白衣を纏っている。この全員に白衣がしっくり来ているイメージで、その仕事に対してある程度の経験を積んでいるプロである雰囲気を醸し出している。それだけに写っている人間に酷く歳若い人間はいないものの、貫禄のある年代の人間もいない。20代後半から40歳手前と言う印象を与える群像だった。
 その中で、久島のみが現在の容貌そのままに写っている。しかしひとりの女性を挟んだ隣に立つ黒髪の男には、紛れもなく波留の面影が残されていた。
 ――本当に…懐かしい。
 久島はその写真を見てそんな事を思い、目を細める。しかしその言葉とは裏腹に、彼には何故だか息が詰まるような感覚がした。全身義体で50年前の容貌を保っている彼には呼吸の必要がないはずなのに、精神的な理由で肉体的な不具合が出る事もたまにある。その都度彼は、やはり身体を支配するのは精神であり脳なのだと痛感する。
 その写真には、久島にとっては遠い過去が映し出されていた。そして波留にとってはどうなのだろうと、久島は思っていた。
 それは、まだ電理研が日本の独立行政法人だった頃に所属していた、最初期の職員達の集合写真だった。具体的に言うならば50年以上前の写真である。

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