電理研統括部長たる久島の日々は多忙を極めている。そんな中でも親友と語り合う時間を捻出するのだから、そのマネージメントは大したものだった。
 今までは車椅子の波留が電理研を訪れるか自身が事務所を訪れるかしかなかったが、波留が電理研に滞在している現在では移動時間の節約にはなっている。電理研の敷地は広大とは言え、地上まで出て人工島を移動する行為とは較べ物にならない。
 久島には決まった定時は存在しない。最高責任者であり何より研究者の常として、何時でも現場に出る事が出来るように生活している。特に現在では、人工島の次世代産業と期待されている気象分子の実験が本格化しようとしていた。メタルや環境分子とは違って彼が主導する計画ではないが、それでも電理研が抱える大きな仕事である。彼は自らの能力を最大限、それに注ぎ込んでいた。
 彼はその最中に余裕を見つけて、波留が滞在している来賓施設への訪問を連日欠かせなかった。あまり遅い時間では老人である波留は休息しなければならないので、その辺りには気を遣ってはいた。
 それでもその日の久島の訪問は、少しばかり時間が遅くなっていた。海底区画にある電理研では、外の風景からは時刻を窺い知る事は困難である。電脳に表示される計時上では日も暮れ、月が徐々に天頂へと達しつつある時刻だった。
 ――いくら何でも、もう休んでしまっているだろうか。ならば顔だけ見て、ホロンから今日の経過報告を受けて帰るとしよう。彼はそんな事を考えつつ、人通りがない来賓施設の通路を歩いている。現在では滞在している人間は波留しか居ないこの区画だが、通路の明るさは穏やかではあるが充分なものとして保たれていた。
 通路の突き当たりにある扉の前で久島は立ち止まる。その扉の傍らの壁面に設置されているコンソールに右手をかざした。電脳経由で開錠要請を行う。そうする事で来訪者である久島の情報が室内に送信され、その室内にいる波留かホロンが認証する事によって扉が開かれるはずだった。
 しかし、今日は違った。コンソールが紅く輝き、拒否メッセージを発していた。久島は思わず右手をコンソールから上げる。少し引き離した。怪訝そうにそこを見やる。
 ――室内には現在誰も居ません。
 そんなメッセージが久島の電脳に流れ込んできた。それはコンソールに準備されている定型文のひとつである。とすると、その通りの状況なのだろうと久島は判断する。
 波留はこの来賓施設に軟禁されている訳ではない。電理研内を彼なりに歩き回っている可能性はあるし、実際にそう言う光景を職員に目撃されている事は久島も把握していた。
 しかしこんな遅い時間帯に室内に居ないとは一体どう言う事だろうかと彼は思う。波留単独ならともかく、ホロンも一緒に居るはずだった。彼女が無理を許すはずはない。
 コンソールから手を下ろす。疑問に思いつつ、久島はホロンに電通を行った。彼はホロンのシステム管理者であり、彼女の情報は電脳に確保してある。立場上は波留とほぼ同等だった。
 ――久島様。どうかなさいましたか?
 すぐに返信は戻ってくる。久島の電脳に黒髪の女性の画像が表示され、言葉を発していた。その表情には薄い微笑を浮かべている。それは人間に従順たるアンドロイドとしてデフォルトの表情だった。
 久島にとってあまり良い状況ではないと言うのに、そんな表情を浮かべているホロンに対して彼は少し眉を寄せる。おそらくホロン側の電脳には彼のそんな表情が表れている事だろう。
 ――こんな時間まで、君と波留は一体何処で何をしている。
 電通であっても若干詰問めいた口調になってしまった事を、彼は止められなかった。しかしアンドロイドを責めても仕方のない話であるとも、彼には判っている。マスターに従う設定になっている以上、これは波留の意思なのだ。
 ――申し訳ありません。
 久島の態度を見て取ったか、ホロンの表情が僅かに変わる。若干、表情が謝罪めいたものとなり、発言もそれに類したものとなった。表示されるアイコンでも軽く頭を下げる。
 ――現在、マスターは、電理研内の図書館にいらっしゃいます。
 ――…図書館?
 ホロンの明確な発言に、久島は怪訝そうな声でその名称を繰り返す。
 研究機関であり調査期間でもある電理研には、それだけ様々な資料も揃っている。しかしその殆どは電子化されており、電理研内からならばメタル経由で何処からでも検索出来るはずだった。わざわざ図書館まで足を運ぶ必要などないはずだった。
 とすると、その「殆ど」に含まれない、電子化されていない紙媒体の書籍目当てなのだろうかと久島は考える。しかしそれは前時代の書物ばかりであり、現在の技術レベルにおいては歴史的資料でしかない。一体波留は何を求めているのか。
 状況を把握し、久島は電通を打ち切った。思惟を巡らせつつ、彼は歩みを進める。来賓施設から図書館へと、再び自分の脚で電理研内を歩いていく。更に時間が費やされる事になるが、まだ時間的に余裕はありそうだった。

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