そこは、少し開けた場所に作られた雑然としたオープンスペースだった。広場のような所にはテーブルと椅子が20セット程度設置されており、それを取り巻くような状態で屋台がいくつか並んでいる。それらが取り扱っている料理は様々な国の郷土料理だった。
 今の時間帯はまだ夕食時だけあって、ほぼ満席状態である。様々な言語が飛び交う中、波留は席を確保していた。笑って手招きする彼に、久島は従うしかない。何せ彼は、このような場所に来た事がない。
「――君はこんな所でも食事をするのか?」
 辺りを見回しながら久島は訊いた。彼らのチームは普段、日本人技術者を当て込んで経営されている料理屋界隈で食事をしている。先程もそう言う場所で夕食を摂ったのだった。
 しかしここには若干荒っぽい雰囲気が漂っている。場所と価格設定からして建設労働者が多いらしく、それは日本人とは限らなかった。
「たまにはね」
 言いながら波留は屋台から確保済みだった緑色をした小振りなビール瓶を2本、指に挟み込んだまま席に付く。そのうちの1本を久島に差し出す。栓は既に開けられていた。
 面食らっている久島の前で、波留は通りすがりの店員らしき少女に何事か声を掛ける。何度かやり取りを行うと、少女は伝票を走り書いて去ってゆく。その会話は、どう聴いても日本語や英語ではなかった。
 そのために久島には理解出来ない。瓶を手にしたまま、尋ねる。
「――今、何を話したんだ?」
「一応つまみになりそうなものを頼んでおいた。食事はしてるから、軽くでいいだろ?」
「私には内容が判らなかった。英語でもなかったようだが…」
「ああ、広東語」
「何故そんなもの話せるんだ」
「この島で働いてるうちに日常会話程度は覚えた」
 波留は事も無げにそう答えた。
 電理研のメンバーは日本人ばかりではある。しかしメガフロートはアジア各国共同開発である以上、現地スタッフには日本語を解さない外国人も存在する。そのために英語でミーティングを行う事も多々あった。
 電理研の人間は理系の研究者畑出身の者ばかりであり、文書や会話で英語を用いる事には元々慣れている。現在この島に出向して来ている全員が、海洋学や情報処理などの専門的な会話すら英語で可能だった。久島や波留も例外ではない。
 そして世界には英語をも母国語としない国も多いし、この島にもそう言った国出身の人間も多い。そう言う人間と関わり合えば、自然と彼らが使う言語も覚えていくものだろう。
 ――しかし、それだけ、あちこちをふらふらしているのかこの男は。久島はそう思うが、それは本人に問うまでもないだろうとも思った。
 波留は小振りの瓶を握ったまま久島の前に突き出した。どうやら乾杯と言う事らしいが、久島は戸惑う。
「…コップはないのか?」
「そんなもの必要ないだろ。小瓶なんだから」
 このビールはそう言うものらしいと久島は理解した。だから流儀に合わせる事とする。彼もまた握った瓶を突き出した。波留の持っている瓶にかつんと当たり、澄んだ音を立てる。
 波留はそのまま瓶の口に自分の口をつける。軽く瓶を傾けて、一口飲んだ。そして口を離した。手振りを交えて言う。
「だって、勿体無いじゃないか。折角こう言う場所に居るのだから。様々な人と英語交えて話したり漢字で筆談してるうちにこうなったよ」
 一方、久島は乾杯を終えたものの、まだ口をつけていない。このまま飲んでいいものかと迷っていたうちに語られた波留の台詞に圧倒されていた。瓶を持ったまま、底をテーブルに当てる。まじまじと波留を見つめていた。
 やがて、久島は口を開く。感慨深そうに言った。
「お前は本当に頭がいい奴だよ」
「…権威のお前に言われると、何だか照れるな」
 波留はそう言った。苦笑し、鼻の頭を掻く。今彼の目の前にいる研究者は海洋シミュレーターであるメタル開発者である。彼は、今まで誰も成し得た事がないようなシステムの構築を推し進めていた。結果、32歳にして素晴らしい結果を出そうとしている。
 その態度に久島は少し微笑んだ。瓶を掲げる。
「私とは別の意味でだよ。私はあくまでも学問専門だが、君は色々な事を知りたがるようだから」
 そう言って彼は、瓶に口をつけた。そのまま少し、中の液体を口に含む。瓶はきちんと冷やされていて、中身も瓶自体も冷たかった。ビールらしいほろ苦さが彼の口の中に広がる。
 暑い中なのでこの冷たさが心地良い。彼はそのまま口の中の液体を飲み込み、再び瓶に口をつけた。軽く傾けていくらか飲んでゆく。

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