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その日も、いつものように久島は定時までには部長オフィスに出勤している。 彼がオフィスを離れた昨晩から今に至るまで、この部屋のメタル領域には部長宛のメールが何通も到着している。リアルのデスクの上にもペーパー型モニタが何枚も重ねられており、そこにも稟議書なり報告書なりが収められているのだろう。夜勤の職員達が遺していった成果である。 急ぎの案件ではないために一晩留められていたそれらに、まず目を通すのが彼の毎日最初の仕事だった。この場で処理や決済が可能な案件はすぐに行い秘書に回し、多少の考慮や更なる事情を知らなければ対処出来ない案件は一旦後回しにして担当者との連絡を取って対応する事になる。 そんな中、久島に電通が着信していた。 それは彼への直通アドレスではなく、秘書を介する公的アドレス宛である。彼の電脳の視界では秘書型アンドロイドのアバターがポップアップしてきて、電通元を告げてくる。それは、ネオブレインに所属するある社員の名だった。 久島は納得し、その電通を自分の元に回すように秘書に告げる。微笑みを浮かべた会釈を残し、秘書は外部回線を久島へと接続した。 程なくして、中年男の顔が久島の電脳に表示される。その男は恐縮そうに久島に頭を下げてきて、言う。 ――朝早く申し訳ありません。久島部長。 この通信は電通形式でありアバター通信ではない。だから表示される二次元アバター自体は大した操作が出来ない。しかしこの相手は社交辞令的なアニメーションを使用してきていた。 その態度に、リアルの久島は僅かな苦笑を浮かべた。しかし電通アバター画像での彼には、その微細な変化は現れない。只、彼の発言に従って口パクのアニメーションが行われるのみだった。 ――いえ、業務時間内です。お気遣いは結構。 久島は電通でそう応対しつつ、リアルでは相変わらず恐縮している中年男に微笑を浮かべている。 日本人然として頭髪が幾分寂しくなってきているその老けた男の姿と、壮年の久島の姿は対照的である。青二才とは行かないまでも、年下の相手に頭を下げ続けている情けない様に捉えられるかもしれない。 しかし実年齢で考えたならばその関係は逆転し、この態度のままが相応しい事になる。もっともそれ以前に彼らは電理研統括部長と中堅企業の中間管理職の間柄なのだから、その年齢差も容貌の差も全く意味をなさないだろう。 ――それでは、御用件をお伺いしましょう。 久島は電通では淡々とした声を寄越している。そしてこの問いこそが、彼がこの中年男を特別扱いしている証左でもあった。 通常の電通相手は、まず接続した秘書に久島への用件を説明する。そして秘書がそのまま久島に繋ぐべきか他の該当部署に回すべきか判断し、割り振るのである。 だから通常の電通は久島に回された時点で秘書から用件を伝えられているものである。しかし、この電通は異なっていた。 久島は彼と顔見知りである。リアルに何度も出会い、共同の仕事をこなしている。その関係から、秘書には電通をそのまま回すように事前に指示していた。その、共同の仕事上の都合である。 特別扱いしたから際限なく電通が飛んでくるかと言えば、そういう事態にはなり得ないと、この恐縮しきった態度から類推は可能だった。 ――はい…そろそろ部長には、次の実験日程をお伺いしておかねばと思いまして…。 久島の電脳内では、頭頂部が禿げたアバター画像が何度も頭を下げてくる。 アニメーションを選択しなければならない電通でこうなのだから、リアルではさぞかし頭を下げまくっているのだろうか。それとも相手に誠意が伝わればいいのだから、リアルでは現在の久島同様に平然としたものなのだろうか。メタルでのコミュニケーションが一般的となった現在において、その辺は曖昧で判らなくなっている。 ともかくその言葉を電脳に受けた久島は、リアルで口を噤んでいた。両手をデスクの上で組む。 黒いモノリスの盤面が、彼の人工皮膚にひんやりとした感覚を伝えてくる。彼の皮膚には熱感知用の感覚点は生身の人間程には備わっていないのだが、彼は確かにその冷たさを実感していた。 そう言った用向きである事は、この彼から連絡があった時点で久島も想像はついていた。彼とはその実験で繋ぎを持っている。そして彼は、その実験以外の用件で無闇に他社の最高幹部と連絡を取りたがるような、非常識な会社人ではないと理解していたからだ。 その用件だったなら、回答は既に準備していた。しかしすぐには口から突いて出てこない。モノリスの上で、何度か指を組み替える時間を要していた。 沈黙が電通回線を支配する。しかし相手の担当者はその間口を挟んでこなかった。久島が脳内で予定を調べ考えていると思っているのだろう。 やがて、久島はリアルに唇を開いた。そして電通回線に、その回答を乗せる。 ――…申し訳ありません。 ――…と、仰いますと? 唐突な謝罪の言葉に、面食らったような担当者の言葉が返ってくる。頭を下げるアニメーション操作を忘れたのか、アバター画像が電通ダイアログ内でフリーズしていた。実際に彼の思考も停止したのだろうから、その硬直は彼のリアルを表しているのかもしれない。 久島は彼の態度を敢えて無視した。今まで通りの淡々とした声を、電通で発してゆく。 ――少々予定が立て込んでおりまして…実験はこちらの都合が付くまで延期して頂けるとありがたいのですが…。 ――ああ…了解しました。 納得した声が電通回線に乗り、久島の元に届く。何処か安堵したような声である。 ――久島部長はお忙しい方ですからね…どうぞ御自分の御予定を優先なさって下さい。 ――申し訳ありません。 久島は謝罪の言葉を繰り返していた。それは、彼にとっては社交辞令だった。リアルの年齢では80歳ともなれば、そう言ったものが彼の身には染み着いている。 ――いえ…それでは部長の御都合がついた頃にでも、御連絡下されば幸いです。 ――勿論です。あなたか――それともそちらの会長宛が良いのでしょうか? ――ああ…それは…。 相手の思考が途中で切れるのを、久島は電通で感じた。口篭もるような態度である。 敢えて問わなくてもいい事を問うた事を、久島は知っていた。しかし連絡先の確定は必要な事である。社交辞令が故に、彼はその問いを実行していた。 ――…私宛でお願い出来ますか? しばしの沈黙の後、相手はそう回答を寄越してきていた。その答えに、久島はすぐに返信する。 ――了解しました。それでは、そちらの会長に御自愛下さいとお伝え下さい。 ――はい…わざわざありがとうございます…。 今回の電通はそれで終了していた。 久島の視界が晴れる。電通ダイアログが消滅し、彼の眼前に広がるのは殺風景なオフィスの光景だった。 彼はデスクの上で組んでいた両手をゆっくりと解いた。絡む指がやけに強張っていた気がした。 ネオブレインとは、人工島海底都市群に拠点を構える託体ベッドメーカーである。人工島におけるそのシェアは9割を占め、世界的にもトップメーカーだった。 メタル黎明期から託体ベッドの開発を開始してきており、技術面においても他社を未だリードしている。そして黎明期からのメーカーである以上、電理研と共同開発してきた過去もある。その繋がりは今でこそ薄れては来ているが、完全には切れてはいない。 ネオブレインの創始者であり現会長の名は、小湊沙織と言った。 若かりし頃の彼女は、初期電理研の一員だった。そこには久島永一朗が在籍しており、その個人的な繋がりは今も続いていた。 もっとも、最高幹部同士の個人的な付き合いで、会社の関係を特別にする事態は避けねばならない。その原則に従い、メタル黎明期以降のこの2社は一企業同士の付き合いとなっていた。 ふたりが繋がっているのは、ある特定の実験においての事だった。 |