「――波留君の様子は?」
 多少の沈黙の後、その老女はある人物の名を口端に乗せていた。その名に久島は半ばまで瞼を伏せる。それは正に、彼の回想に登場していた人物の名である。そして今、この小湊沙織も同じ時代を思い出していたのかと彼は悟った。
 ――当然だ。我々を50年も繋ぎ止めているのは、その男の存在なのだから。
「…特に変わりはないよ」
 夕焼けに横顔を曝しつつ、久島は静かに答えた。
 両手に持っているコートの中には、その手の熱が篭もり始めている。――生身ではないのに、体温保持か。そんな感覚もきちんと再現されているのか。私は最早人間ではないのに――久島は現状に、多少の馬鹿馬鹿しさを覚えた。
 それは、義体が人間の平熱を保つ設定になっていればこそである。35度の熱源から放射される熱がコートに覆われ逃げる場所を失い、篭もっている――熱伝導の物理法則に従っているだけであり、何ら特別な意味などない。事象に意味を見いだすのは、捉える人間に何らかの含むものがあるからだろう。彼はそれを自覚している。
「何の変わりもない――容態は悪くもならず、彼は静かに眠り続けたままだ」
「…そう」
 付け加えた久島の説明に、老女は頷くように目礼した。一言だけ声を発し、それ以降は続いてこない。何かを考え込むような表情をしていた。
 久島はそんな彼女の顔を見下ろしている。しかし、やがて彼女は目を開けた。皺で弛み、こけた頬を晒し、真剣な瞳を久島に向けた。
「――久島君。私、試したい事があるのよ」
「小湊さん」
「入院してからもずっと考えていたのよ。暇だから。この病室でも、メタルへの接続は制限されていないしね」
 久島に自らの名を呼び掛けられても、彼女はそのまま話し続ける。遥か昔の同僚へと訴え掛けていた。声色こそ老化しているが、その本質は一切変化していない。追い求める研究を抱えた人間としての態度だった。
「久島君独りでいいから、今度波留君に試しておいてくれないかしら?」
 その老女からの訴えに、久島は眼を細めた。彼なりの表情で微笑み掛ける。そして穏やかな声で答えた。
「…私だけでは何も出来ないな。責任者である君が居ないと色々と困るんだ」
「電理研の皇帝の御言葉とは思えないわね」
「本当に…君までそんな事を言わないでくれ」
 何処か楽しげに告げられた評価に、久島は口を尖らせる。そのまるで拗ねたような響きに、老女は微笑んだ。
 ――どうやら彼女は、自分の言い分に笑いの成分を刺激されたらしい。それに気付いた久島は、ばつが悪そうな顔をした。誤魔化すように顔を横に振る。前髪が目元に落ちるのを感じた。
 そして彼は右手をコートから外した。勢い余って乱れた前髪を、掻き上げる。そうしながら、口を開いた。
「とにかく、君が戻ってこないと何も出来ない。託体ベッドについては私は専門外だし、それ以前に法的に問題が生じてしまう。私と君が揃っていないと、あの実験は出来ないんだ」
「じゃあ…――」
 久島の指摘に老女は視線を巡らせた。白い天井が彼女の目を捉える。そこには相変わらず夕焼けの照り返しが僅かに映り込んでいた。
 そしてその視線が久島の顔に行き着く。50年前と同様の、その義体の顔を彼女は見つめた。
「――…考察データだけは渡しておくから、久島君も目を通しておいてくれない?あなたの意見も訊きたいの」
 若干の沈黙の後、老女はそう言った。そして掌経由でのデータ送信を試みようとしたのか、彼女を覆う毛布が波打つ。しかし彼女の身体はそれ以上動こうとはしなかった。微細な毛布の重量が彼女の試みを邪魔するのか、それとも自らの腕の重量そのもののせいなのか。ともかく彼女の肉体的な衰えが目に見えて表れている。
「…頂こうか」
 そんな彼女に、久島は自らの右手を伸ばす。彼は屈み込み、波打つ毛布の中に右手を潜り込ませ、そこにある老女の手を探り当てた。力ない彼女の手に、自らの右手を重ねる。
 途端、その掌から情報が流れ込んできた。接触通信は不都合なく作動していた。送信されてくるそのデータを読み込みつつも、彼は意識を集中する。送信データの内容を垣間見ようとした。電脳に展開されてゆくデータに、彼は眉を寄せる。
 その時、部屋の壁に備え付けられているコンソールが単純な機械音を発していた。チャイムのそれが、室内の人間達に注意を促す。次いで、そのコンソール上に平面ホログラムが投影された。病室らしく未電脳化者や電脳障害を持つ患者にも対応出来るように、実際の視覚に訴え掛けてくる仕組みである。
 コンソール上には女性看護士の胸像画像が出現し、音声で語られてゆく――曰く、面会時間が終了に近付いているので、見舞い客は退出の準備をして欲しい――大まかに言えばそんな内容だった。
「――じゃあ、小湊さん。そう言う訳だから、私は失礼させて頂くよ」
 その形式的なアナウンスに促されたように、久島は身を起こした。手の中のコートを持ち変え、微笑んで老女に会釈する。
「ええ。進展があったら、連絡頂戴ね」
「ああ、約束する」
 口許に笑みを浮かべ、久島は頷いた。そのまま踵を返し、病室の出入り口へと歩いてゆく。
 しかしふと、彼は足を止めた。扉の前に立ち尽くし、開錠キーを送信しない。
 久島はコンソールに手をかざした状態のまま、口を開いた。背後に横たわったままの女性の名を呼ぶ。
「――小湊さん」
「何かしら?」
 振り向かないまま呼び掛けてきたその友人に、老女は促した。相手は病室の扉の前まで歩いている。離れてはいるが、静かな室内である。特に大きな声を出さなくてもやり取りは可能だった。老女のしわがれた声であっても、透き通って聴こえてくる。
「君にその気があるなら…――」
 促され、久島はそう言い掛けた。しかし、口篭る。接続状態を保ったままのコンソールが発する光が、彼の顔に当たり淡く照らし出してくる。
 しかし、それは早いうちに再開された。彼は意を決したように、すっと顔を上げた。
「――私は君に、いい義体技師を紹介出来ると思う」
 直後、久島はそう口走っていた。彼は正面を見据えている。そこにあるのは白い扉であり、コンソールの淡い光と窓からの夕日の照り返しが混在するばかりだった。
 彼の背後から声は聞こえない。外から何らかの音も届いてくる事もなく、室内は静謐に満たされてる。呼吸音すら目立たない――この部屋には「呼吸を欲する人間」は、独りしか居なかった。
 やがて、溜息めいた音が微かに、それでいて確実に室内に響き渡った。次いで、掠れた声が久島の耳に届く。
「――…私は、久島君みたいに強くはないわ」
「…そうか」
 一拍の間を置いて彼がそう答えた瞬間、軽い電子音を立て、コンソールへのアクセスが終了した。
 途端、扉がゆっくりと開いていった。それがふたりの会話の終了を意味するように。
 久島は何も言わないまま、扉をくぐり抜けて行った。靴音がそれに続くが、閉まりゆく扉が病室への音の伝播を遮った。
 
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