入室してすぐに、久島は室内に視線を巡らせる。外と同じく四方は白い壁に囲まれている。汚れひとつなく、掃除を怠った様子もない。床も同様であり、塵ひとつ落ちていない。
 窓も同様であり、相変わらず夕焼けが映し出されている。人工島の建築物の大半の仕様通り、窓もメタルに接続されている。住民の操作ひとつでマジックミラーにも不透過の壁にも変更が可能だった。しかし現状は、窓そのものの機能が保持されている。その紅が静謐な室内を満たしていた。
 病室にしては広い部屋に、ベッドが置かれている。そこに人が横たわっていた。
 壁に沿ってテーブルや棚も存在してはいるのだが、久しく使用された痕跡はない。棚に入った物品もなかなか動かされる機会がない様子だった。
「――久島君」
 ベッドから声がする。嗄れた女性の声だった。
「久しぶり。忙しいでしょうに、来てくれたのね」
「君と私の仲だろう?」
 久島は少し笑う。室内を視線で走査すると、傍らにある丸椅子が目に入った。見舞い客用の、どの時代のどんな病院にも存在するような、何の変哲もない簡素な椅子である。
 彼はそれに眼が留まったが、それ以上の事はしない。椅子に歩み寄りそれを持ち上げる事はなかった。只、ベッドサイドに歩みを進める。その隣に立ち、横たわる病人を見下ろした。
 久島の視線を受け、老女は微笑みを浮かべる。彼女は長い白髪を纏め上げる事なく伸ばしたまま病床に就いていた。来客にもベッドをリクライニングさせず、横になったままである。視線と口許のみを動かしている。しかしその表情は老いているものの、楽しげだった。
「電理研も忙しいでしょうに、良く顔を出せたわね」
「組織が巨大に成り果てると、その最高責任者とは案外暇なものでね。今では財務や経営は専門の部署に任せているし、有能な研究職も多数所属してくれている。私は最早、彼らの御輿に過ぎないお飾りさ」
 壮年の容貌をした男は、台詞の最後には肩を竦めて苦笑する。その表情は、何処かリラックスした雰囲気を醸し出していた。
 一見して息子と母親を思わせる外見のふたりは、容貌としての年齢差を一切感じさせないような会話を交わしてゆく。
「その自己評価こそが口先だけじゃない。あなたが居なければ、今だってメタルは成り立たない」
「全てにおいてやり手の君には敵わないよ」
 白髪の老女に微笑みと共に言われると、久島は薄く笑う。懐かしむような視線を彼女の顔に落とした。
「あなたこそが電理研であり、メタルでしょうに。メタルの神にして電理研の皇帝とは良くも言ったものだわ」
「…それは、メディアが好き勝手に書き立てただけの過ぎた評価だ。古くからの付き合いである君からもそんな事を言われるとは心外だな」
 久島は僅かに眉を寄せ、言い募る。しかしその態度には柔らかいものがあった。
 正に久島は、それらのキャッチフレーズを用いて彩られる立場に居る。彼が所属する電理研のみならず人工島の社会においても最高位を築いているし、いずれはメタルと人工島の創始者として人類史上にも名を刻む事だろう――そんな評価を得ていた。
 彼を信仰紛いに尊敬し、電理研を目指す研究者も少なくないのが現状だった。その求心力は偉大であり、この島に無くてはならない人物と成り果てていた。
 そんな彼であっても、この老女の前では胸襟を開いている。そして老女も久島に賞賛の句を並べ立ててはいるが、過剰な尊敬は持っていない様子だった。それでいて、過度ではないが相手を賞賛する気持ちも忘れてはいない。率直に、目の前の男を尊重しているのだろう。
 彼女はベッドに横たわったままである。彼女が動かせるのは顔のみであるらしい。そんな彼女を見下ろしつつ、久島は微笑んでいた。
 ――変わっていない。彼はそんな事を思い、出会った頃の事を思い出していた。
 それは遥か遠くと成り果てた50年程度遡っての時代である。あの頃、この女性はまだ若く美しかった。そして彼女と自分の傍らには、あの黒髪の青年が居て――。
 そこまで想いが至った時点で、久島は胸の何処かに突き刺すような痛みを覚えた。思わず歪む顔は、そのままぎこちない笑みへと変貌する――胸の痛みとは、笑わせる。心臓など、もう私の何処にも存在しないのに。
 回想の中の久島の姿は、今と大して変化していない。壮年の男性のままだった。他の登場人物達は経年のままに年老いて行っていると言うのに、彼はその道を選択していない。
 久島と違い、時の流れに逆らわずに老女と成り果てたこの女性の名は、小湊沙織と言った。
 
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