そして、室内にはしばし沈黙がやってくる。 長く語ったためか、波留は軽く咳き込んだ。するとホロンが水が入ったコップを持って来ている。そっとそれを差し出してきた。本当に介助用としてのプログラムが優れているらしい。 波留は一言礼を言って彼女からコップを受け取り、口をつけた。冷蔵庫のミネラルウォーターらしく、冷たく冷えていた。 彼は口を湿らせてから、少し微笑んだ。 「――色々と面倒な事を訊いて悪かったね。君もすんなり認証して貰えると思って、僕の元に来ただろうに」 「いえ、納得して頂いてから認証して頂くべきですので。いくらでも御質問下さい」 「だが、僕をマスターと認証したら、君にとって面倒な事が続くだろう」 波留はそう言って溜息をつく。水がまだ半ばまで入ったままのコップを、サイドテーブルに置いた。 そして彼は身体から力を抜き、ベッドにその身を預ける。質のいいクッション素材が彼の体重を受け止めた。そうすると彼は、老いて衰えた身体を実感する。 僕は、自分ではもう何も出来ないのだ。ならば――。 「君は僕の代わりに、海に潜って欲しい。データを取る手伝いをして欲しいんだ。僕が海を知るための手伝いを。そしてその行為自体やデータの詳細などを、絶対に久島には話すな。――それで良ければ」 波留は右手の掌を、ホロンに見せた。そのまま腕を上に向ける。ベッドに横たわったまま、傍らに立つ彼女の前にゆっくりと突き出した。 「僕は君のマスターとなろう」 波留は自らが突き出している腕が、昔とは較べ物にならない程に痩せこけているのを見ている。その掌も指も骨ばっていて、皮膚には水気がまるでない。しかし、それでも、彼はきっぱりとホロンに宣誓していた。 「了解しました。認証します」 女性型アンドロイドの口から、明瞭な声がする。そして彼女も右手をそっと伸ばした。有機体素材で造られた、成年女性として標準的なレベルの人工肌で覆われた掌が、スーツの袖口から覗いている。 ホロンの掌が、波留の掌と重なる。波留はその掌からは人間らしい体温めいたものを感じ取った。有機体製アンドロイドとは、本当に精巧に造られているらしい。 と、ホロンの表情が消え、機械のそれとなる。静かな室内に何かを読み込むような音が微かに響き、彼女の瞳が僅かに輝いた。 「――…認証完了。波留真理様を私のマスターと設定します」 数秒後、機械的な音声が彼女の口から紡がれた。そっと掌が剥がされる。人間の熱を持った掌が離れ、波留の掌には僅かに汗が残されていた。これは一体どちらの汗なのだろうと彼は思った。 が、そんな事はどうでもいいとも彼は思っている。 「――これから宜しくお願いします。マスター」 「僕こそ宜しく頼むよ」 両手を前で合わせ深々と一礼するホロンに、波留は笑顔を浮かべた。顔を上げたホロンも、笑顔を浮かべている。 |