空には月が煌々と輝いている。
 波留は桟橋の上でタオルケットと毛布に包まり、月明かりに照らされていた。外気は冷たい。海水に濡れた病院服の上からも一応は拭いているものの、彼の身体は冷え切っている。吐く息も白い。後ろに纏められたままで解けていなかった白髪から海水が伝い、彼の首や肩を濡らしていた。
 彼の救助に当たった警備員に何事か訊かれ、それに応えつつも、彼は海を見ていた。
 ――海で死ねなかったか。ふと、そんな事を思う。
 潜る事も出来ず、死ぬ事も出来なかった。僕は海に受け容れて貰えなかった。嫌われてしまったらしい。
 あくまでもこれは、不注意から起こった事故だったはずである。しかしその最中に一瞬でも死に憧れた波留は、そちらの方向に考えが捉われていた。肉体と精神の乖離は、人間にはありがちである。
「――波留様」
 彼の背後から声がした。振り返ると、ホロンと名乗ったアンドロイドがそこに立っていた。黒のスーツで身を固めた彼女はまるで事務員のように見えるが、その服からは海水を滴らせている。
「施設から車椅子を借りてきました」
 ホロンはそう言って、押して来ていた車椅子を波留に示した。彼が使っていたものよりも世代が劣るタイプのものではあるが、これも一般的な車椅子だった。今まで彼が使用していた車椅子もまた、電理研からの最新型の貸与品である。
「お使いになられていたものと同タイプの車椅子は、電理研からのお取り寄せになります。明日中にはお持ち出来るかと」
 言いながら彼女は、波留を抱きかかえた。介助用アンドロイドを名乗るだけの事はあり、手際良く老人を車椅子へと乗せる。波留はそれに素直に従った。
「お体に触ります。病室にお風呂の準備をしてきましたから、暖まって下さい」
「君は本当に作業が早いね」
 車椅子に収まった波留が後ろを振り向いて笑って言うと、ホロンも微笑んで答える。
「私に与えられた任務ですから。お気になさらず」
 ゆっくりと歩くようなスピードで車椅子が押され始める。桟橋の板目から伝わるような微かな振動に波留は気付くが、普段使っているタイプとは違う車椅子なのだから慣れの問題なのだろうと思う。
 ――もしかしたら、久島は僕がそろそろこんな事をしでかすのではないかと思って、彼女を僕に寄越したのだろうか。
 月明かりを浴びながら、波留はそう思った。
 介助員なら、専門病棟なのだからベッド数に対して人数は充分足りている。それなのにわざわざ自分のためだけに、特別に有機素材製のアンドロイドを使ってまで介助員を用意するとは、とんだ念の入れようのように思われたのだ。
 波留が海ばかり見ている事は、久島には伝わっている可能性が高かった。ならば、そのうちに誤って転落する可能性もあると、思われてもおかしくはなかった。或いは、本当に海に自ら身投げする可能性を考えられたのかもしれない。
 「親友」がどちらの解釈をもってホロンを派遣してきたのか、波留には判らなかった。或いは彼には考え及ばない、全く違う考えなのかもしれない。
 何にせよ、彼は僕を死なせたくないらしい。それは、僕を何らかの目的で、メタルに繋ぎたいからなのだろうか。それともやはり友情の賜物なのだろうか――今の波留には、どちらとも知れなかった。

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