次に波留が自らが行った動作を意識したのは、大きく息をついた時だった。
 それは生理的な行動であり、無意識のものだった。ともかく波留の身体は空気を欲し、口を大きく開けて数度喘ぐ。喉を反らせて息を吸い込み、喉の奥が痛くなる。勢いで海水が少し気管に入り込み、呻き、咳き込んだ。
 そんな風に数度呼吸した事により肉体が軽く落ち着きを取り戻してから、彼ははたと気付いた。――何故、僕が海面に居る?間に合ってるんだ?
 絶対に無理であるはずだった。彼の見立てではそうだった。しかし今、現に海面に顔を出して呼吸している。意識が掻き消える刹那に、無我夢中で上がってきたとでも言うのだろうか。
 彼はふと、自分の身体に何かが触れている事に気付いた。しっかりと誰かに抱きかかえられているようで――。
「――大丈夫ですか?」
 気付いた時には、彼の隣には黒髪の女性がいた。海中ではその2本の腕が、彼の身体を支えるようにしっかりと抱きとめている。
「…ああ…」
 身体が欲していた息の補給をとりあえず終えた波留は、戸惑いつつも短く答えた。しかし礼の言葉は出てこない。「ありがとう」とか「助かった」とか、本当に心からそう思えるのか、彼にも判らなかったからだ。
 その代わりに、単純に質問をする。何故こんな海中に都合良く人がやってきて自分を助けたのかが、まるで判らない。
「…君は…?」
 波留の簡潔な問いに、女性は笑みを浮かべて応えた。
「私はホロン。介助用アンドロイドです」
「アンドロイド?君が?」
 波留は少し驚いた。どう見ても人間にしか見えない顔貌をしているし、抱かれている腕の感触も服に包まれているとは言えまるで機械体とは思えなかった。
 その驚きを、女性型アンドロイドも感じ取ったのだろう。波留に説明する。
「私の身体の外側は生体素材で作成されておりますので、肉体的には人間と同等と思って頂いて結構です」
 義体やアンドロイドにも、機械体と有機素材体の2タイプがある事を波留は思い出した。勿論どちらが高価かと言えば、後者の方が圧倒的にそうである。それ程に精巧に生身の人体と似せており、X線透過などですらなかなか発覚しない。
 元が人間である義体ならば、財力が許す限りそう言った拘りを持つ使い手が多いだろう。しかし、完全な人工体なのに高価な有機素材体を使用しているアンドロイドは、貴重な存在と言える。
「その君が何故、こんな所に?この施設の人かい?」
 アンドロイドに対して「人」と言う単語を使うのも妙ではあるが、ともかく訝しげに訊く波留に対し、ホロンは相変わらず微笑を浮かべて答えた。
「いえ、電理研より派遣されて来ました」
「電理研?」
 その単語を耳にした時、波留には厭な予感がした。その組織名自体は、彼の生活している範囲内でも良く聴かれる単語である。しかし彼は別の意味合いを感じていた。
「電理研統括部長である久島永一朗氏より、波留真理様をマスターとしてお世話を担当するよう、任務を言い付かっております」
「…久島か」
 ホロンの説明台詞に波留の予感が的中する。波留はホロンの口から出された親友の名前を繰り返していた。それは、少しばかり苦い響きを含む声である。その微妙な変化を感じ取る事無く、ホロンは説明を続ける。
「本来なら明日の早朝にお目通りする予定でアイランドに到着したのですが、波留様が桟橋より転落したのを電通で知り、急ぎ参りました」
 彼女にとっては波留を守る事が任務であり、その波留が生命の危機に陥る事態だったから、速攻で向かいスーツのまま飛び込み救出した――と言う事になる。波留はようやく自分が助かった理由に合点が行った。それはそれで、別の問題が浮上してくる。
「それを知る事が出来たという事は、もう既に僕のデータは久島から取得済みと言う事かい?」
 2061年現在の世の中では、個人情報の保護は最重要課題である。そもそもメタルの成り立ち自体からしてそれを最重要視しているのだから、他の件についても徹底されている。そのために個人のデータを横流しする事はあまり好ましくない事であった。アンドロイドであるホロンにも、AIにそう言った常識がプログラムされているらしい。
「私が波留様を認識するための、最低限のデータです。御安心下さい。――波留様に合わせた私の設定もしなければなりませんので、宜しければ電通させて頂けませんか?」
 そう言ってホロンは片手を顔の前に上げて波留に示す。
 電脳化されている人間は、掌に通信因子を付着させている。そのために掌を合わせるだけで、まるでコンピュータ同士がケーブルに繋がれたかのように、互いのデータを送受信する事が可能である。もっとも前述のように個人情報保護は強固であり、互いが望んだデータのみの行き来となる。
 ホロンは波留に許可を受け、彼のデータを自分の中に取り込み、波留をマスターとする設定を行いたい。彼女が言っているのはそう言う話だった。
「…少し待ってくれ」
 しかし波留は、彼女の掌を見て、そう答える。
「とりあえず海から上がってから、君に色々と話を訊いてからにしたい」
 簡単な手法でデータの送受信が出来る以上、それを行うのに慎重になる人間は多い。設定の根幹に関わるデータと訊けば、尚更である。そう解釈し、ホロンも納得した。何よりあまり海中に漂っているのは、このマスター候補の身体に悪いと言う判断も働く。だから話を打ち切る。
「了解しました。現在、施設に救助を求めております」
「流石はアンドロイドだね。用意周到だ」
 言いながら波留は騒がしくなって来ている桟橋の方を見上げた。病棟の夜間警備員と介助員達が数名、海へ向けて懐中電灯や中型のライトを用いて波留達を探している様子が彼の視界に入っている。どうやらホロンは以前から救助のサインを送信し続けていたらしかった。

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