不意に、限界が来た。波留は、息が続かない自分の身体に気付く。 彼が50年前には優れたダイバーであった理由のひとつには、鍛錬を欠かせなかった事がある。最初から持ち得た身体能力だけではなく、そこに上乗せしてきたものがあったのだ。しかし今の彼にはそれはない。更には元手の身体も老い、衰えていた。そんな状態では、昔の感覚で計る事は命取りだった。 ――そろそろ上がらなくては。 波留はそう感じ、身体を捻った。動かない足を誤魔化しつつ、彼は方向転換しようとした。 彼の顔は海面の方を向いた。しかし身体は上手く動かない。上向きに浮き上がるにはもっと修正が必要だった。 ふと視界に入った海面に、彼は思わず動きを止めてしまった。 海面には大きな月が映り込んでいた。海との境目は青にも赤にも揺らいで見え、その境目を更に縁取るように、さざめく水面がきらきらと光っている。月が反射する光は暗い海中を照らし上げ、その光もそのうちに黒に飲まれてゆく。その光の減算具合すらも美しい。 波留は自らの口元から、小さな泡が漏れているのをも視界に入れていた。取り込んでいた貴重な酸素が浪費されてゆく。しかし海面はまだまだ高い。 ――ここで、僕は、死ぬのか? 不意に彼はそう思った。あまりに呆気なく、そんな言葉が心中を走り抜けた。そしてその言葉に衝撃を受けない自分にも気付いていた。 海面に映る月明かりが波間で影を作り、海中に漂う彼の身体に陰影を作り出している。彼はゆっくりと右腕を、空に向かって伸ばした。無論、空を掴める訳もなく、彼の手は遥か彼方から海中に投影された月光を前にして握り締められる。その伸ばされた腕もまた、彼の顔に影を落とした。 波留はゆっくりと、腕や身体から力を抜いた。海中で彷徨わせる。息は苦しくなって来ている。そのうち無意識のうちにもがき始めるだろうかと彼は他人事のように思っていた。 海で死ぬのはそう簡単な事ではなく、綺麗な事でもないとは、彼は知識としても実体験としても知っていた。さっさと意識を失えば多少は楽だろうが、何時までもこの海中での光の陰影を見ていたい気分もあり、彼は相反する気持ちを持て余している。 何にせよ、死ぬのが厭だとか、そう言う方向の気持ちは、今の彼には一切浮かばなかった。現実的に考えて、最早息が続く間に海面まで辿り着く事は無理だと悟っていたのも一因である。しかしその他にも、死をあっさり受け容れるだけの理由は、彼なりにあった。 こんな身体だと言うのに、海で死ねるなら――まあ、いいか。 もしかしたらこんな機会を待ち望んでいたのかもしれないとすら、波留は思っていた。――これは歴然とした事故だが、自殺と扱われても仕方ないか。安全装置を切っていて転落したのだから自業自得だし、もしかしたら自殺するためだと思われるかもしれないな。様々な人々に迷惑をかけるが、仕方ない…。 自分に関わってきた人々の顔が脳裏に浮かんでは消える。海の水は冷たく、波留の腕の感覚がなくなってゆく。陰影を見出している視界が霞んでゆく。 刹那に、彼の視界の真っ只中に、凄まじい勢いの泡が立ち上がったのを見たような気がした。 |