海に飛び込む事は、50年前の彼には日常だった。しかし今は違う。更には今回は自分から望んで飛び込んだ訳ではない。多少、急角度で落ちたため、彼は水面に身体を打ち付けていた。水の中で、少し咳き込む。潮の味がする海水が口の中に入り込んだ。
 白い泡が大量に彼の身体に纏わりつく。水の音が彼の聴力を支配した。下に引き込まれる感覚と、上に登ろうとする感覚が相反して彼に作用する。
 瞼をそっと開けると、車椅子がゆっくりと確実に、暗い海底へと吸い込まれて行っていた。車椅子は波留が海中に落ちた際に、上手い具合に彼の身体から離れてくれたらしかった。彼は沈む車椅子に巻き込まれる事無く、海中に留まっている。
 海とは言え桟橋がある場所なので、水深はそれ程深くないはずである。夜の海中は暗く視界は狭いが、波留は静かに沈みゆく車椅子を見送る事が出来ていた。
 車椅子は海草が生い茂る岩の上で数度跳ね、その度に海草の陰で体を休めていたのであろう魚を追い出してゆく。そしてもっと下へと進んでゆき、やがて停まり沈黙した。様子を伺うように魚がその周りを泳いでいる。波留が目算するに、ここは海底まで10m程度の深さであるようだった。
 ――この程度の深さなら。不意に彼の心を何かがよぎる。
 10mなど、潜るうちには入らない。すぐに辿り着ける位置であるはずだった。少なくとも、50年前の彼にとっては、そうだった。――彼にとっては、それは50年前などではなかった。
 波留は両手を海底へと伸ばした。上体を捻って身体の向きを変え、海底目掛けて潜ろうとする。両手で水を掻き、前へ進もうとした。
 しかし、両脚が動かない。車椅子を用いるだけあって、彼の足は機能していなかった。人間には浮力が働くため、それ以上の推進力をつけなければ深く潜る事は出来ない。足が利かない今の彼には、それは不可能だった。腕の力だけでは限界がある。
 ――これでも、精神的な問題だと?
 波留は、苛立たしげに振り返る。動かない両脚を睨み付けた。
 彼が50年の眠りから目覚めてメディカルチェックを受けた際、彼に就いた複数の医師達は口々にそう言ったのだ。両脚に肉体的な問題は認められない。足が機能しないのは、50年間眠り続けた精神的なショックによるものだ――と。
 僕はこんなに潜りたいのに。
 なのに、この足が動かないのが、精神的な問題である訳がないだろう。
 波留は海底に向き直った。手を伸ばしても、全く何も届かない。車椅子が沈んでいる場所にはまだまだ遠かった。彼は顔を歪め、歯を喰いしばる。

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