夜も更けた時間帯、波留は桟橋に車椅子を出していた。
 春は近い季節とは言え、夜の空気は冷たい。ましてや海からは風が何度も吹き抜けてくる。彼は現在、特に眠気を感じていないが、仮に眠かったとしてもこの冷たい風では目が覚めてしまうだろう。
 彼は桟橋の先端に車椅子を進め、瞼を伏せてじっと黙り込んでいた。耳元にそれぞれ両手を当て、何かを聴こうとしているようだった。軽く吹き抜ける風の音が彼の耳を掠めていく。波のさざめきが空気を揺らして届く。細かな水の粒子が、彼の顔にも感じられた。
 強く冷たい一陣の風が吹き抜け、彼の髪を揺らす。後ろに纏められていた白髪が微かにたなびいた。前方から吹き付ける風をもっと感じようと、彼は車椅子を少し前に進めた。
 その時突然、彼は自らの身体が安定感を失ったのを自覚した。前に傾いていく。
 ゆっくりと瞼を上げると、斜めに傾いた視界がそこにあった。そしてそのまま視界は更に傾く。身体がずり落ちてゆく。
 桟橋から身を乗り出し過ぎて、車椅子の前輪が桟橋を踏み外した事を、彼は知った。勿論、衝突や転落防止の安全装置が付属している車椅子ではある。しかし彼は海に出来る限り近付きたいがために、その安全装置を普段からオフに設定していた。これは誰にも知られていない事であった。
 ――海に、落ちる。
 彼は何処となく冷静に、そう思った。そして、今の自分では何をやってもその回避は不可能だとも悟った。
 海面が視界に広がる。普段は彼になくてはならない車椅子が、その荷重で却って彼を海へと押しやる。
 海の冷気が顔に迫り――彼は車椅子と共に、桟橋から海へと転落した。

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