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波留はゆっくりと瞼を上げた。見慣れた天井は自然な暗さを保っている。彼は深い溜息を長くつく。僅かに胸が揺れた。 彼は背中にやんわりとしたマットレスの感触を感じる。顔を傾け、天井から視線を背けた。視点を変えてゆくうちに、徐々に焦点が合って来る。 「――マスター」 そうこうしているうちに、いつものように女性型アンドロイドの声が彼の耳に届く。彼女は相変わらずどうやって察知するのか、波留が眠りから覚めた途端に彼の元へとやって来ていた。 「やあ…」 波留はそれだけ言って、ホロンを見上げて笑い掛けた。その声は疲れている。壁にある時計を見るに、彼が今晩眠りに就いてからそれ程時間は経っていない。それは最早いつもの事だった。 「睡眠導入剤をお使いになりますか?」 心配そうな顔をしつつも、ホロンは冷静な声で波留にそう尋ねてきた。それもいつも繰り出される定型句と化している。 ――本当に、同じような日々を繰り返している。彼は今、それを痛感していた。 ホロンの問いには答えない。波留は無言で右手を挙げ、顔の前にかざした。その掌をゆっくりと顔に近付けてゆき、両眼の周りを鷲掴むようにして包み込んだ。視界が暗くなるが、彼は瞼を伏せる事無くその皺が寄った掌を見やる。掌はあまり高い熱を持ってはいなかった。 やがて波留はその手を剥がした。薄い掌の感触が遠ざかってゆく。そしてホロンの方に視線をやった。薄く微笑んでみせる。 「…いっそ僕に導入剤を全て寄越してくれていれば、君の手を煩わせずに済むんだがね」 波留のその台詞に、ホロンは一瞬きょとんとして見せた。しかしすぐに口許に笑みを作り出す。少しだけ目許にも笑みを浮かべ、口を開いた。 「申し訳ありません。医療行為に関しては、マスターではなく主治医の指示が優先されますので…」 「…ああ、いいよ。判っているから」 波留は微笑んで右手を横に振った。彼としては、人の良さそうな笑みを作り出したつもりだった。 つまりは彼の主治医は、この薬は絶対に彼自身に所持させたくないのだろう。それは彼にも前々から判っていた。 只でさえ強力な薬剤である。その用法や用量を誤った場合、最悪死に至る可能性があった。そしてこの手の薬剤は一度に大量に服用すればその可能性があると、一般にも知られているものである。 不眠症に苛まれ薬剤に依存した場合、思わず服用限界を超える恐れがある。そしてこのような薬剤の処方をする以上、その患者は精神的に不安定な状態にある。となれば、もっと能動的に限界を超えてしまう恐れも否定出来ない。だから、患者本人ではなく、信頼出来る他人に管理させておくべきなのである。それが常識的な判断だった。 「で、どうされますか?昨晩飲んだばかりですし、止めておきますか」 「…そうだな…――いや、貰うよ」 少し時間を経て導き出された波留のその返答に、ホロンは少し意外そうな顔をした。しかし、すぐに頷く。 「判りました」 彼女は一礼して波留に背中を向けた。薬剤などを取りに行く。彼はその背中に視線を向け、暫く追いかける。しかしその背中が病室の外に消えてゆくと、追尾を諦めた。 それから波留は自分でベッドを操作し、リクライニングさせておく。身体に掛けられていたシーツがたわみ、膝の辺りまで落ちた。覆われた両脚は細く、動かない。 すぐにホロンは戻ってくる。半分に割られた薬剤と、白湯をそれぞれの手に持っていた。それは昨晩割られたものの片割れだった。波留はそれらを受け取る。 指先に摘み上げた白い錠剤の片割れを、彼は見ていた。さりげなくだが、自分にホロンの視線も注がれている事を彼は知っている。 ――ここできちんと、僕がこれを飲んだ事を確認するように設定されているのだろう。介助用プログラムの根幹に位置している設定の中に含まれているのだろう。 何せ飲んだ振りをして薬剤を手元に溜め込まれては、管理を別人に任せている意味がないのだから。 そう言う事を考えてしまう自分は、やはり精神的にまずい状況に置かれているのだろうか。波留の脳裏にそんな思考がよぎった。 しかし、黙って彼は薬を口に含んだ。薬剤が直接口中に触れ、苦い味が広がってゆく。彼の顔が少し歪む。それをそのまま白湯で流し込んだ。 |