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ふと、手首を見やるその視界の先に意識が行った。吹き飛ばされたせいか、彼は今まで接岸状態にあった小型船からは少し距離を取る格好となっていた。軽く流されたらしい。 それでも彼が保持したままだったロープは、きちんとそこに伸びていて――。 彼は、目を瞠った。 その甲板に、そのロープを持った相手が、倒れていた。 若干遠ざかっているし視点が海面上から見上げる形になっている事で、細かな事は彼には判らない。しかしロープを両手に掴んだまま、うつ伏せになって倒れ込んでいるのは見て取れていた。 彼が波に揺られると、ロープが軋む。彼の視界で真っ直ぐに伸びたロープが直線状のまま動いている。 その向こうに倒れている彼の親友は全く動かないが、その両手からは力が抜けていないらしくロープを離す事はしなかった。僅かにロープがずれ、擦れるような音を彼は聴いた。 ――まさか、先程の衝撃で傷を負ったのは、僕ではなく――。 その可能性に、彼は思い至る。背筋に戦慄が走り抜けた。左手首にはまだ僅かに紅い液体が付着している。見ようによっては、握り締めた手の指の跡すら、感じ取る事が出来た。 潮の流れが身体に伝わってくる。ロープを掴んだままの右手が軋みを感じる。彼の視線の狙点では親友は相変わらず倒れたまま動かなかった。意識を失っているのだろうかと思う。その肩に緩く巻きついていたはずだったロープが、徐々に狭まってゆくのを彼は見た。 ――まずい。このままでは、このロープが彼を殺す。 微かな頭痛の中ではあるが、彼の意識は明晰だった。それが冷静に、最悪の可能性を導き出してゆく。 僕が持っていて潮に流されでもしたら、彼もそれに巻き込む事となる。そうでなくともこのまま放置していて、その先が船のスクリューに巻き込まれでもしたら――。 彼は右手にあるロープに視線を落とした。一瞬、逡巡する。 しかしそれは一瞬だけだった。彼は今まで自分の身体に巻き付けて回収していたロープを一気に解き、右腕の中に纏め上げた。 疲れ切った身体だが、一気に伸び上がった。右腕を高々と挙げ、勢いと反動をつけて、ロープの束を投げた。 勢い余って腕が海面に叩き付けられる。大きな音を立て、彼の顔の前で海水が弾けた。口の中に塊状の海水が飛び込んでくる。潮の味が口の中に広がった。 すぐに彼は顔を上げる。自分がやった行動の結果を見ようとした。ロープは束となったまま、甲板へと到達していた。ロープに溜め込んでいた海水を雨のように降らし、それも空飛ぶロープの動きに従ってすぐに途切れている。ロープは全て甲板の上に落ち、横たわる親友の隣でのたくっていた。 彼は自分の行動の成功を知り、少しばかりの笑みを浮かべた。しかし、すぐにそれは解ける。呆然とした表情になる。 身体が動かなくなっていた。手足の感覚が唐突に消えた。長時間海水に浸かり低体温になっていた上で、力を振り絞るような行為をした事がとどめになったらしい。 ――…これは、無理か。 彼は冷静にそう思った。眉を寄せる。一旦は助かるかと思ったが、やはり駄目だったらしい。 ――まあ、それはそれで、僕だけが死ぬならいいか。誰か他の人間を巻き込まずに独りだけ死ぬのならば、それは自分が選んだリスクの結果なのだから。そう思い、彼は迫り来る死にすら納得出来ていた。 動かない身体が海をゆっくりと漂ってゆく。波が顔に打ち付けられた。今まで彼を苛んできた頭痛は緩慢になり、それに従って意識が拡散してゆく。 彼が気付いた頃には顔が下半分、波間に沈み込んでいた。海水に口や鼻が洗われる。呼吸が出来ない状態に置かれるが、感覚自体が消え去っていて苦しくはない。 波が彼のゴーグルを叩く。視界がぼやけてゆく。――これは、溺死する前に低体温症で心停止するんじゃないだろうか。重く動かない四肢が海中に引きこまれようとしている中、彼はそんな事を思っていた。 波が上下し視界の邪魔をしている。そこに映るものを、微かに残っていた彼の意識が捉えた。 甲板の上では、何時の間にかに親友が立っている。左腕を庇うように押さえ、じっと彼の方を見ている様子だった。 本来の視界では捉える事が出来ないはずだが、彼はその左腕が赤く染まっているのを見ていた。おそらく今までの情報が視界を補っているのだろう。 しかし、もう見ているだけで何もしない。目の前には死に瀕している親友が居るはずなのに、特に慌てる様子もなく冷静に見ているだけだった。研究者そのものの冷徹な視線を、彼はぼやける意識の中で感じていた。 ――君にとって、僕はそう言う存在か。 彼はそんな事を思った。冷たい海水が当たり続ける頬が、痙攣するように笑みを浮かべた。薄れゆく意識が闇に侵食されてゆく。それは絶望にも似ていた。 一際大きい波が彼に襲い掛かる。動かない身体は全く抵抗出来ず、攫われた。渦のような海流に巻き込まれ、視界が暗転する。そのまま全てが闇に飲み込まれていった。 |