彼は右手でロープをしっかりと持ち、ゆっくりと左腕を上に伸ばす。海水が腕から垂れてくる。その腕は重い。左の手首に嵌められたダイバーウォッチが太陽の光を弾いている。その手は少し距離が足りず、親友の手には届かない。
 その相手の手が伸びた。一歩踏み込んだらしい。その前で彷徨っていた彼の左手首をがしりと掴んだ。その強い力が、彼に伝わる。
 その時、突然に、彼の視界が漂白された。
 そして同時に、衝撃を身体に感じる。
 彼には一体何が起こったのか、全く判らなかった。とにかくその衝撃に身体が吹き飛ばされる。海面に持ち上がっていた上体が勢い良く背中から水面に叩き付けられた。まるで地面にでも投げ出されたかのように背中を打ちつけ、彼は顔を歪めて呻く。
 しかしそこは地面や床ではなく、海面である。そのまま海が彼の身体をざぶりと受け容れる。叩き付けられた勢いのまま、海が彼の身体を沈め込んだ。一気に上体が沈み、身体が逆さになる。頭部が深海側に向き、彼の結ばれた長髪が上へとたなびいていた。
 ここで慌てては溺れる事となる。彼は疲れてはいたが、その危険性を認識していた。ゆっくりと海中に四肢を投げ出す。幸い息はまだ暫く持つ。潮の流れに従い、それが落ち着くのを待った。
 その右手にはロープを保持したままだった。海中から海面へと、上方へぴんと張られたそれに視線をやる。泡がゴーグル越しの視界に渦巻いている。これを掴んでいる限り、酷く流される事はないだろうと彼は思った。
 ふと、視界に彷徨う左手を見た。そこには紅いものが付着している。ダイバースーツに覆われた手首の辺りから引かれるように、淡く帯状に赤が海水に溶けてゆく。
 それは海中で血が流れる光景だと、彼は実体験から知っていた。海に慣れた彼であっても、たまに海の岩や壁などに手の甲を打ち付ける事がある。剥き出しになっている手の肌は当たり方によっては容易く切り傷を負い、鈍い痛みと共に赤い液体がじんわりと海水に染み出すのを見る事があった。
 手首が痺れるように痛む。今の衝撃で着水した勢いで、何処かに打ち付けたのかと彼は思う。しかし手首はダイバースーツに覆われていて保護されている。相当強くぶつけるなりしてスーツごと切らない限り、流血はしないのではないか?しかし彼が見る限り、嵌めているダイバーウォッチは破損していない様子で、手首を何処かに叩き付けた印象はない。
 ともかく腕を水から上げて確認すべきだった。本当に手首に傷を負ったならば、その傷の場所によっては重要な血管を切断している可能性がある。そうであれば命に関わる問題だった。
 衝撃以来、海面の波は徐々に落ち着きつつある。急に海に叩き込まれたとしても数分は呼吸の必要がない。それが彼の特性だったが、海面が落ち着いたのならばそろそろ大気のある世界へと戻るべきだった。
 ロープを引き、上体を一気に持ち上げる。水圧が彼の身体を押し下げようとするが、それに打ち勝った。とりあえず海面に顔を出す。そして左手を持ち上げ、顔の前に持ってきた。
 そこに血は微かに付着しているが、それ以上溢れてくるような事はなかった。傷は浅いのかと思い、彼は目を凝らす。ゴーグル越しにだが、確認しようとする。しかしダイバースーツに切り裂かれたような跡も見当たらなかった。

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